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リムスキー・コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」, Op.35
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 北ドイツ放送交響楽団 1959年5月16日~19日録音をダウンロード
- Rimsky-Korsakov:Scheherazade, Op.35 [1.The Sea and Sinbad's Ship]
- Rimsky-Korsakov:Scheherazade, Op.35 [2.The Legend of the Kalendar Prince]
- Rimsky-Korsakov:Scheherazade, Op.35 [3.The Young Prince and The Young Princess ]
- Rimsky-Korsakov:Scheherazade, Op.35 [4.Festival at Baghdad. The Sea. Ship Breaks against a Cliff Surmounted by a Bronze Horseman]
- 第1楽章 「海とシンドバットの冒険」
- 第2楽章 「カランダール王子の物語」
- 第3楽章 「若き王子と王女」
- 第4楽章 「バグダッドの祭り、海、船は青銅の騎士のある岩で難破。終曲」
管弦楽法の一つの頂点を示す作品です。
1887年からその翌年にかけて、R.コルサコフは幾つかの優れた管弦楽曲を生み出していますが、その中でももっとも有名なのがこの「シェエラザード」です。彼はこの後、ワーグナーの強い影響を受けて基本的にはオペラ作曲家として生涯を終えますから、ワーグナーの影響を受ける前の頂点を示すこれらの作品はある意味ではとても貴重です。
実際、作曲者自身も「ワーグナーの影響を受けることなく、通常のオーケストラ編成で輝かしい響きを獲得した」作品だと自賛しています。
実際、打楽器に関しては大太鼓、小太鼓、シンバル、タンバリン、タムタム等とたくさんでてきますが、ワーグナーの影響を受けて彼が用いはじめる強大な編成とは一線を画するものとなっています。
また、楽曲構成についても当初は
「サルタンは女性はすべて不誠実で不貞であると信じ、結婚した王妃 を初夜のあとで殺すことを誓っていた。しかし、シェエラザードは夜毎興味深い話をサルタンに聞かせ、そのた めサルタンは彼女の首をはねることを一夜また一夜とのばした。 彼女は千一夜にわたって生き長らえついにサルタンにその残酷な誓いをすてさせたの である。」
との解説をスコアに付けて、それぞれの楽章にも分かりやすい標題をつけていました。
しかし、後にはこの作品を交響的作品として聞いてもらうことを望むようになり、当初つけられていた標題も破棄されました。
今も各楽章には標題がつけられていることが一般的ですが、そう言う経過からも分かるように、それらの標題やそれに付属する解説は作曲者自身が付けたものではありません。
そんなわけで、とにかく原典尊重の時代ですから、こういうあやしげな(?)標題も原作者の意志にそって破棄されるのかと思いきや、私が知る限りでは全てのCDにこの標題がつけられています。それはポリシーの不徹底と言うよりは、やはり標題音楽の分かりやすさが優先されると言うことなのでしょう。
抽象的な絶対音楽として聞いても十分に面白い作品だと思いますが、アラビアン・ナイトの物語として聞けばさらに面白さ倍増です。
まあその辺は聞き手の自由で、あまりうるさいことは言わずに聞きたいように聞けばよい、と言うことなのでしょう。そんなわけで、参考のためにあやしげな標題(?)も付けておきました。参考にしたい方は参考にして下さい。
この上もなく折り目正しく物語るシェエラザード
ジェンダーのことがあれこれと話題になっている今の時点からこの作品を見直してみると、かなり「やばい」のではないかという気がしてきました。(^^;
しかし、その「やばさ」の中から意外な本質が顔を出してくるような気がします。
よく知られているように、この作品のスコアには当初以下のような一文が添えられていました。
サルタンは女性はすべて不誠実で不貞であると信じ、結婚した王妃 を初夜のあとで殺すことを誓っていた。しかし、シェエラザードは夜毎興味深い話をサルタンに聞かせ、そのためサルタンは彼女の首をはねることを一夜また一夜とのばした。 彼女は千一夜にわたって生き長らえついにサルタンにその残酷な誓いをすてさせたの である。
これは、ボーヴォワールが冷酷に言い捨てたように、男性にとって女性の最大の価値は性的対象として存在することであり、その価値を失った女性は「廃棄物」に過ぎなくなります。そして、その価値観にたてば「老い」とはまさに女性をそのような存在としてしまうものだと彼女は述べています。
しかし、それは逆から見れば、「老い」は女性が強いられた「静的対処」としての役割から解き放つ側面もあると言ったのもボーヴォワールでした。
そう考えてみれば、この物語に登場するサルタンは「一夜をともにした」女性は全て「性的対象」としての価値を失った「廃棄物」と見なす存在だったのです。
それは実に異常な存在なのですが、それは同時に「男」という存在の本質をあからさまなまでに凝縮した存在でもあります。
それ故に、この物語におけるシェエラザードは「男」にとっての「性的対象」としての価値を高めることでサルタンと対峙するのではなくて、一人の「人間」として向き合った存在だったともいえるのかもしれません。
そう考えれば、この作品における「シェエラザード」は豊満で妖艶な美女として描くのはまずいのではないかと思えてくるのです。
もっとも、この作品のレコードジャケットなどを見てみると、ほとんどがそのような女性として描かれているのですが、そう言えば、クリュイタンスのレコードはそれとは縁遠いジャケットで、そこで描かれるシェエラザードは剛直な姿に感じる瞬間もありました。
そして、このイッセルシュテットの「シェエラザード」も美しくはあっても必ずしも豊満でもなければ、あからさまに「色気」を振りまくような女性としては描かれていません。ヴァイオリンのソロはオケのコンマスが担当していると思うのですが、これが実にそう言うイッセルシュテットが求めるシェエラザードの姿にピッタリです。
それは細身でありながらも知的で艶のある姿です。
そして、シェエラザードが語る物語もまた大袈裟な冒険譚になるのではなく、常に折り目正しく丁寧に物語を紡いでいきます。そこにあるのは「静的対象」としての女ではなく、自立した一人の人間として対峙しているのです。
ただし、かんじんのレコードジャケットは完全に男に媚びる女の姿が採用されています。(^^;
実に残念な話ですが、この録音が為された時期というのは、例えば日本ではテレビ局の幹部が女性アナウンサーのことを「お前らは芸者と同じだ」と言い放つような時代だったのですから、それもまた仕方のないことだったのかもしれません。