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チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調, Op.48


アンタル・ドラティ指揮 フィルハーモニア・フンガリカ 1958年6月をダウンロード

  1. Tchaikovsky:Serenade for Strings in C Major Op.48 [1.Pezzo in forma di sonatina. Andante non troppo - Allegro moderato ]
  2. Tchaikovsky:Serenade for Strings in C Major Op.48 [2.Valse. Moderato. Tempo di Valse]
  3. Tchaikovsky:Serenade for Strings in C Major Op.48 [3.Elegia. Larghetto elegiaco]
  4. Tchaikovsky:Serenade for Strings in C Major Op.48 [4.Finale (Tema russo). Andante - Allegro con spirito]

スランプ期の作品・・・?



まずは、弦楽セレナード、そして4つの組曲、さらにはマンフレッド交響曲の6曲です。マンフレッド交響曲は、その標題性からしても名前は交響曲でも本質的には多楽章構成の管弦楽組曲と見た方が自然でしょう。
まず第4交響曲は1877年に完成されています。


  1. 組曲第1番:1879年

  2. 弦楽セレナード:1880年

  3. 組曲第2番:1883年

  4. 組曲第3番:1884年

  5. マンフレッド交響曲:1885年

  6. 組曲第4番:1887年



そして、1888年に第5交響曲が生み出されます。
この10年の間に単楽章の「イタリア奇想曲」や幻想的序曲「ロミオとジュリエット」なども創作されていますから、まさに「非交響曲」の時代だったといえます。
何故そんなことになったのかはいろいろと言われています。まずは、不幸な結婚による精神的なダメージ説。さらには、第4番の交響曲や歌劇「エウゲニ・オネーギン」(1878年)、さらにはヴァイオリン協奏曲(1878年)などの中期の傑作を生み出してしまって空っぽになったというスランプ説などです。
おそらくは、己のもてるものをすべて出し切ってしまって、次のステップにうつるためにはそれだけの充電期間が必要だったのでしょう。打ち出の小槌ではないのですから、振れば次々に右肩上がりで傑作が生み出されるわけではないのです。
ところが、その充電期間をのんびりと過ごすことができないのがチャイコフスキーという人なのです。

オペラと交響曲はチャイコフスキーの二本柱ですが、オペラの方は台本があるのでまだ仕事はやりやすかったようで、このスランプ期においても「オルレアンの少女」や「マゼッパ」など4つの作品を完成させています。
しかし、交響曲となると台本のようなよりどころがないために簡単には取り組めなかったようです。しかし、頭は使わなければ錆びつきますから、次のステップにそなえてのトレーニングとして標題音楽としての管弦楽には取り組んでいました。それでも、このトレーニングは結構厳しかったようで、第2組曲に取り組んでいるときに弟のモデストへこんな手紙を送っています。
「霊感が湧いてこない。毎日のように何か書いてみてはいるのだが、その後から失望しているといった有様。創作の泉が涸れたのではないかと、その心配の方が深刻だ。」
1880年に弦楽セレナードを完成させたときは、パトロンであるメック夫人に「内面的衝動によって作曲され、真の芸術的価値を失わないものと感じている」と自負できたことを思えば、このスランプは深刻なものだったようです。
確かに、この4曲からなる組曲はそれほど面白いものではありません。例えば、第3番組曲などは当初は交響曲に仕立て上げようと試みたもののあえなく挫折し、結果として交響曲でもなければ組曲もと決めかねるような不思議な作品になってしまっています。
しかし、と言うべきか、それ故に、と言うべきか、チャイコフスキーという作曲家の全体像を知る上では興味深い作品群であることは事実です。

<弦楽セレナード ハ長調 Op.48>
チャイコフスキーはいわゆるロシア民族楽派から「西洋かぶれ」という批判を受け続けるのですが、その様な西洋的側面が最も色濃く出ているのがこの作品です。チャイコフスキーの数ある作品の中でこのセレナードほど古典的均衡による形式的な美しさにあふれたものはありません。ですから、バルビローリに代表されるような、弦楽器をトロトロに歌わせるのは嫌いではないのですが、ちょっと違うかな?という気もします。
チャイコフスキー自身もこの作品のことをモーツァルトへの尊敬の念から生み出されたものであり、手本としたモーツァルトに近づけていれば幸いであると述べています。ですから、この作品を貫いているのはモーツァルトの作品に共通するある種の単純さと分かりやすさです。決して、情緒にもたれた重たい演奏になってはいけません。


  1. 第1楽章 「ソナチネ形式の小品」

  2. 第2楽章 「ワルツ」

  3. 第3楽章 「エレジー」

  4. 第4楽章 「フィナーレ」




「楷書」的な部分が前面に出てきてきている


フィルハーモニア・フンガリカは1956年に起き「ハンガリー動乱」によってドイツに亡命したハンガリー人音楽家によって結成されたオーケストラです。最初はウィーンで結成され、その後は西ドイツのマールという小都市をへ本拠地を移しました。
おそらく、大変な船出だったと思われるのですが、そのオーケストラを全面的に支えたのがドラティでした。

マールは小さな町ですからそれほど多くの聴衆も望めなかったのですが、当時の冷戦下においては亡命ハンガリー人によって結成されたオケと言うことで政治的な価値があったようで、西ドイツ政府からかなりの財政支援をうけていたようです。
しかし、それ以上に、ドラティの顔によって当初はマーキュリー・レーベルに、その後はDeccaなどで積極的に録音活動を行えたのは財政的な面だけでなく、音楽面においても大きかったようです。

とりわけ、ドラティと組んで成し遂げたハイドンの交響曲全集は世界初とはならなかったのですが、今もって20世紀の録音史を飾る金字塔です。それから、コダーイの管弦楽曲全集も見逃せません。

しかしながら、冷戦終了とともに西ドイツ政府からの支援も打ち切られ、2001年には解散を余儀なくされます。
率直に言って、それほど上手いオケでもなかったので、支援を打ち切られるという財政難の中で演奏のレベルもさらに下がっていって聴衆から見放されたのかもしれません。
しかし、クラシック音楽の録音史においては大きな足跡を残したのですから、今もその名前は多くの人の記憶に刻み込まれています。

ただし、それほど上手いオケでもなかったのですが、ドラティが指揮台に立ったときは何とも言えないいい味を出していたようです。

ドラティの演奏は一言で言えば「楷書」です。ですから録音となるとその「楷書」的な部分が前面に出てきて、ライブで感じ取れるような味は薄くなってしまっているのは残念です。

おそらく、ドラティの経歴の中で、そう言う「楷書」的な要求に完璧にこたえて素晴らしい成果を残したのはロンドン交響楽団でしょう。そして、その「楷書」の演奏を細大もらさず「楷書」的に音を拾っていたのはマーキュリーの録音でした。
おかしな言い方ですが、そう言うマーキュリー録音のクオリティの高さを意識すればするほどに、逆にこのコンビが持っているいい味がスポイルされてしまったのかもしれません。