クラシック音楽へのおさそい〜Blue Sky Label〜


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ディーリアス:日没の歌


トマス・ビーチャム指揮:ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 (A)モーリーン・フォレスター (Br)ジョン・キャメロン ビーチャム合唱協会 1957年4月1日録音をダウンロード

  1. Delius:Song of Sunset [1.A song of the setting sun!]
  2. Delius:Song of Sunset [2.Cease smiling, Dear! a little while be sad]
  3. Delius:Song of Sunset [3.Pale amber sunlight falls across]
  4. Delius:Song of Sunset [4.O Mors!]
  5. Delius:Song of Sunset [5.Exile]
  6. Delius:Song of Sunset [6.In Spring]
  7. Delius:Song of Sunset [7.I was not sorrowful, I could not weep]
  8. Delius:Song of Sunset [8.Vitae summa]

最後には全てのものが夕闇の中に没していく



この作品はイギリスの詩人アーネスト・ダウスンの作品をもとにして書かれたオーケストラ伴奏付きの合唱曲です。
アーネスト・ダウスンは実にもって悲劇的な人生をおくった人物で、失恋、病、そして相次ぐ母と父の自殺という悲劇によって酒に溺れ、わずか32才でこの世を去っています。しかし、そのような人生をおくったアーネスト・ダウスンの詩は悲劇というものが持つある種の甘美さを身にまとっています。
たとえば、
長くはつづかない、涙と笑い、
愛と、望みと、憎しみ
これらも、あお門を行き過ぎると
われらの心に跡形も残らない
葡萄酒と薔薇の日々も、そう長くは続かない
霧立ち込める夢の中から、我らが道はふとあらわれ、
また隠れる、夢、まぼろしのうちに

のように。

しかし、ディーリアスはそう言う甘美さからは距離をおいて、どこか醒めた感覚で音楽を綴っています。
それ故に際だった旋律も響きもなく、音楽は浮かび上がっては消えていき、また新しい響きが浮かび上がり、そして最後は静かに日が沈みいくように消えていきます。

何かがが心に残りそうでいて、そして何かが心に分け入ってくるようでいて、それでも最後には全てのものが夕闇の中に没していくような音楽です。
本当のレクイエムとはこのような音楽のことを言うのかもしれません。

なお、全体は以下の8つの部分に分かれるのですが、音楽自体は切れ目なく演奏されます。

  1. 沈みゆく夕陽の歌

  2. 微笑みをやめよ、いとしい人よ

  3. 淡い琥珀色の陽の光は

  4. 果てしない悲しみ

  5. 哀しい別離の海のほとり

  6. 身よ、いかに木立と

  7. 悲しみに暮れていうというのでもなく

  8. 長くはつづかない、涙と笑い




唯一、ディーリアスと一体化できた指揮者


「イギリスの生んだ最後の偉大な変人」と呼ばれたビーチャムがいなければ、おそらくディーリアスという作曲家は存在しなかったでしょう。
かつて、ロベルト・カヤヌスをシベリウス演奏の「原点(origin)」と書いたことがあるのですが、ビーチャムとディーリアスの関係はそれ以上のものがあります。

ディーリアスの音楽を一番最初に見いだしたのはイギリスではなくてドイツでした。しかし、イギリスにおいて彼の音楽を広く知らしめた功績はビーチャムにこそ帰せられます。彼がディーリアスの音楽に初めて接したのは1907年のことですが、それにすっかり魅了されたビーチャムはその翌年から彼の作品を頻繁に取り上げます。
そして、ディーリアス畢生の大作とも言うべき「人生のミサ」を初めて全曲演奏したのもビーチャムであり、1909年のことでした。

おそらく、この頃から両者は良好な関係を築いていくのですが、おそらくその根っこにはどちらも金持ちの息子という共通点があったことも大きく関わっていたのかもしれません。やがて、ビーチャムは己の音楽感からして不十分だと思う点があれば、ディーリアスの作品を勝手に編曲しはじめます。
いわゆる「ビーチャム版」と呼ばれているのですが、そう言うビーチャムの行為にディーリアスは一切の文句をつけなかったのです。かといって、そう言う行為にディーリアスが無頓着だったのではなくて、逆に他の作曲家よりも自作に手の入れられることを嫌っていたというのですから、この両者の信頼関係の深さは並々ならぬものだったようなのです。

ですから、このビーチャムが最晩年にまとめてステレオ録音した一連の演奏について、何らかの評価を下すことは不可能ですし、おそらく誤りであろうと言うべきでしょう。
それはカヤヌスがシベリウスのオリジンであった以上に、この演奏こそがあらゆるディーリアス演奏の基準点になっているからです。そして、その事をディーリアスもまた決して否定しないでしょう。
ディーリアスの音楽には外面的な視点が存在しない。自らの存在の奥底で彼の音楽に彼の音楽を感じるか、または何も感じないか、このどちらかしかない。ビーチャム氏の指揮する場合を除き、彼の作品の超一流の演奏に出会うことが滅多にないのは、一部にはこうした理由もあると思われる

まさに最高の讃辞ですが、まさにここで述べられている「ディーリアスの音楽には外面的な視点が存在しない。自らの存在の奥底で彼の音楽に彼の音楽を感じるか、または何も感じないか、このどちらかしかない」と言うことこそが演奏する方にとっても聞く方にとってももっとも大きな課題となるのでしょう。
そして、そのようなディーリアスに完全に一体となれたのは、おそらくビーチャム以外には存在しなかったと言い切ってもいいでしょう。
まさに彼こそはあらゆる意味において「最後の偉大な変人」だったのです。