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ラロ:スペイン交響曲 ニ短調, Op.21
(Vn)ユーディ・メニューイン:ピエール・モントゥー指揮 サンフランシスコ交響楽団 1945年1月26~27日録音をダウンロード
- Edouard Lalo:Symphonie espagnole in D minor, Op.21 [1.Allegro non troppo]
- Edouard Lalo:Symphonie espagnole in D minor, Op.21 [2.Scherzando. Allegro molto]
- Edouard Lalo:Symphonie espagnole in D minor, Op.21 [3.Intermezzo. Allegro non troppo]
- Edouard Lalo:Symphonie espagnole in D minor, Op.21 [4.Andante]
- Edouard Lalo:Symphonie espagnole in D minor, Op.21 [5.Rondo]
遅咲きの一発屋
ラロといえばスペイン交響曲です。そして、それ以外の作品は?と聞かれると思わず言葉に詰まってしまいます。
いわゆる、クラシック音楽界の「一発屋」と言うことなのでしょうが、それでも一世紀を超えて聞きつがれる作品を「一つ」は書けたというのは偉大なことです。
なにしろ、昨今の音楽コンクールにおける作曲部門の「優秀作品」ときたら、演奏されるのはそのコンクールの時だけというていたらくです。そして、そのほとんど(これはかなり控えめな表現、正確には「すべて」に限りなく近い「ほとんど」)が誰にも知られずに消え去っていく作品ばかりなのです。
クリエーターとして、このような現実は虚しいとは思わないのだろうかと不思議に思うのですが、相変わらず人の心の琴線に触れるような作品を作ることは「悪」だと確信しているような作品ばかりが生み出されます。いや、そのような「作品」でないとコンクールでいい成績をとれないがためにそのようなたぐいの作品ばかりを生み出していると表現した方が「正確」なのでしょう。
しかし、音楽はコンクールのために存在するものではありません。
当たり前のことですが、音楽は聴衆のために存在するものです。この当たり前のことに立ち戻れば、己の立ち位置の不自然さにはすぐに気づくはずだと思うのですが現実はいつまでたっても変わりません。相変わらず、「現代音楽」という業界内の小さなパイを奪い合うことにのみ腐心しているといえばあまりにも言葉がきつすぎるでしょうか。
ですから、こういうラロの作品を、異国情緒に寄りかかった「効果ねらい」だけの音楽だと言って馬鹿にしてはいけません。
クラシック音楽というのは人生修養のために存在するのでもなければ、一部のスノッブな人間の「知的好奇心」を満たすために存在するのでもありません。
まずは聞いて楽しいという最低限のラインをクリアしていなければ話にはなりません。
ただ、その「楽しさ」にはいくつかの種類があるということです。
あるものは、このスペイン交響曲のように華やかな演奏効果で人の耳を楽しませるでしょうし、あるものは壮大な音による構築物を築き上げることで喜びを提供するでしょう。はたまた、それが現実への皮肉であったり、抵抗であったりすることへの共感から喜びが生み出されるのかもしれません。
そして、時には均整のとれた透明感に心奪われたり、持続する緊張感に息苦しいまでの美しさを見いだすのかもしれません。
私はポップミュージックに対するクラシック音楽の最大の長所は、そのような「ヨロコビ」の多様性にこそあると思います。
そして、華やかな演奏効果で人の耳を楽しませるという、ポップミュージックが最も得意とする土俵においても、このスペイン交響曲のように、彼らとがっぷり四つに組んでも十分に勝負ができる作品をいくつも持っているのです。
そういう意味において、このような作品はもっともっと丁重に扱わなければなりません。
閑話休題、話があまりにも横道にそれすぎました。(^^;
ラロはスペインと名前のついた作品を生み出しましたが、フランスで生まれてフランスで活躍し、フランスで亡くなった人です。ただし、お祖父さんの代まではスペインで暮らしていたようですから、スペインの血は流れていたようです。
彼は、1823年にフランスのリルという小さな町で生まれて、その後パリに出てパリ国立音楽院でヴァイオリンと作曲を学びました。そして、20代の頃から歌曲や室内楽曲を作曲して作曲家としてのキャリアをスタートさせようとしたのですが、これが全く評価されずに失意の日々を過ごします。
その内に、作曲への夢も破れ、弦楽四重奏団のヴィオラ奏者という実に地味な仕事で生計を立てるようになります。
このようなラロに転機が訪れたのが、アルト歌手だったベルニエと結婚した42歳の時です。
ベルニエはラロを叱咤激励して再び作曲活動に取り組むように励まします。そして、ラロも妻の激励に応えて作曲活動を再開し、ついに47歳の時にオペラ「フィエスク」がコンクールで入賞し、その中のバレー音楽が世間に注目されるようになります。そして、そんな彼をさらに力づけたのが、1874年にヴァイオリン協奏曲がサラサーテによって初演されたことです。
そして、その翌年にこの「スペイン交響曲」が生み出され、同じくサラサーテによって初演されて大成功をおさめます。
彼はこれ以外にも、「ロシア協奏曲」とか「ノルウェー幻想曲」というようなご当地ソングのようなものをたくさん作曲していますが、これは当時流行し始めた異国趣味に便乗した側面もあります。
しかし、華やかな色彩感とあくの強いエキゾチックなメロディはそういう便乗商法を乗り越えて今の私たちの心をとらえるだけの魅力を持っています。
- 第1楽章:Allegro non troppo ソナタ形式
- 第2楽章:Scherzando. Allegro molto 三部形式
- 第3楽章:Intermezzo. Allegro non troppo 三部形式
- 第4楽章:Andante 三部形式
- 第5楽章:Rondo
ある意味ではキャリアの絶頂にあったのかもしれません
メニューインは1945年にピエール・モントゥー&サンフランシスコ交響楽団以下の2曲を録音しています。
- ラロ:スペイン交響曲 ニ短調 作品21
- ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 作品26
この時モントゥーはすでに70歳を迎えていましたから、当時29歳だったメニューインは孫の世代と言っていいほどの年齢差がありました。
モントゥーは1929年にはパリ交響楽団の創立時の常任指揮者を務めていました。しかし、楽団は経済的に行き詰まり、モントゥー自身もその危機を救うために私財をなげうって頑張ったのですが、遂に力尽きて1935年にはアメリカに渡ってサンフランシスコ交響楽団の常任指揮者に就任してしまいました。
当然の事ながら大きな後ろ盾を失ったパリ交響楽団は1938年に解散せざるを得なくなります。
その経験がモントゥーにどの様な影響を与えたのかは分かりませんが、モントゥーにとっては小さすぎるポストと思われるサンフランシスコ交響楽団の常任指揮者を1953年まで続け、その後フリーになっても楽団との良好な関係を続けました。
「君臨せずして統治する」と言われたモントゥーの手法はおそらくはこのサンフランシスコ時代に身につけたものだと思われます。
彼は、実に地道に、そして一切の無理をしないで、少しずつこの地方のオーケストラの育成に努め、やがては世界のトップ・オーケストラと比較してもそれほどの遜色を感じないベルにまで引き上げました。
しかしながら、この45年録音では、モントゥーは完全にメニューインのサポート役に徹しています。
10代でデビューして神童とうたわれたメニューインは、この大戦末期にあって、ある意味ではキャリアの絶頂にあったのかもしれません。すでに戦争の帰趨ははっきりと見え始めていた時期です。ヨーロッパ戦線では連合軍はドイツの首都ベルリンに迫っており、太平洋戦線ではアメリカルソン島に上陸を果たしていました。
そして、このメニューインの演奏は彼の持てる力とそう言う時代の空気が見事に解け合って、美しく、明解で、そしてこの上もなく力強い響きで全曲を弾ききっています。結果として、音楽もまたパワフルなもので、重くて陰うつな雰囲気になりがちなラロのスペイン交響曲でさえ晴れ渡った風景が浮かんでくるほどです。
そんなメニューインも50年代にはいるとテクニックの衰えと不備が指摘されるようになるのですが、ここではそう言う未来が待ちかまえているなどとは露ほども感じさせません。