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ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 作品95(B.178)「新世界より」


ラファエル・クーベリック指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1956年10月1日~4日録音をダウンロード

  1. Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [1.Adagio - Allegro molto]
  2. Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [2.Largo]
  3. Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [3.Molto vivace]
  4. Dvorak:Symphony No.9 in E minor, Op.95 "From the New World" [4.Allegro con fuoco]

ボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である



ドヴォルザークが、ニューヨーク国民音楽院院長としてアメリカ滞在中に作曲した作品で、「新世界より」の副題がドヴォルザーク自身によって添えられています。

ドヴォルザークがニューヨークに招かれる経緯についてはどこかで書いたつもりになっていたのですが、どうやら一度もふれていなかったようです。ただし、あまりにも有名な話なので今さら繰り返す必要はないでしょう。
しかし、次のように書いた部分に関しては、もう少し補足しておいた方が親切かもしれません。

この作品はその副題が示すように、新世界、つまりアメリカから彼のふるさとであるボヘミアにあてて書かれた「望郷の歌」です。

この作品についてドヴォルザークは次のように語っています。
「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう。」
「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」


この「新世界より」はアメリカ時代のドヴォルザークの最初の大作です。それ故に、そこにはカルチャー・ショックとも言うべき彼のアメリカ体験が様々な形で盛り込まれているが故に「もしアメリカを訪ねなかったとしたら、こうした作品は書けなかっただろう」という言葉につながっているのです。

それでは、その「アメリカ体験」とはどのようなものだったでしょうか。
まず最初に指摘されるのは、人種差別のない音楽院であったが故に自然と接することが出来た黒人やアメリカ・インディオたちの音楽との出会いです。

とりわけ、若い黒人作曲家であったハリー・サンカー・バーリとの出会いは彼に黒人音楽の本質を伝えるものでした。
ですから、そう言う新しい音楽に出会うことで、そう言う「新しい要素」を盛り込んだ音楽を書いてみようと思い立つのは自然なことだったのです。

しかし、そう言う「新しい要素」をそのまま引用という形で音楽の中に取り込むという「安易」な選択はしなかったことは当然のことでした。それは、彼の後に続くバルトークやコダーイが民謡の採取に力を注ぎながら、その採取した「民謡」を生の形では使わなかったののと同じ事です。

ドヴォルザークもまた新しく接した黒人やアメリカ・インディオの音楽から学び取ったのは、彼ら独特の「音楽語法」でした。
その「音楽語法」の一番分かりやすい例が、「家路」と題されることもある第2楽章の5音(ペンタトニック)音階です。

もっとも、この音階は日本人にとってはきわめて自然な音階なので「新しさ」よりは「懐かしさ」を感じてしまい、それ故にこの作品が日本人に受け入れられる要因にもなっているのですが、ヨーロッパの人であるドヴォルザークにとってはまさに新鮮な「アメリカ的語法」だったのです。
とは言え、調べてみると、スコットランドやボヘミアの民謡にはこの音階を使用しているものもあるので、全く「非ヨーロッパ的」なものではなかったようです。

しかし、それ以上にドヴォルザークを驚かしたのは大都市ニューヨークの巨大なエネルギーと近代文明の激しさでした。そして、それは驚きが戸惑いとなり、ボヘミアへの強い郷愁へとつながっていくのでした。
どれほど新しい「音楽的語法」であってもそれは何処まで行っても「手段」にしか過ぎません。
おそらく、この作品が多くの人に受け容れられる背景には、そう言うアメリカ体験の中でわき上がってきた驚きや戸惑い、そして故郷ボヘミアへの郷愁のようなものが、そう言う新しい音楽語法によって語られているからです。

「この曲はボヘミアの郷愁を歌った音楽であると同時にアメリカの息吹に触れることによってのみ生まれた作品である」という言葉に通りに、ボヘミア国民楽派としてのドヴォルザークとアメリカ的な語法が結びついて一体化したところにこの作品の一番の魅力があるのです。
ですから、この作品は全てがアメリカ的なもので固められているのではなくて、まるで遠い新世界から故郷ボヘミアを懐かしむような場面あるのです。

その典型的な例が、第3楽章のスケルツォのトリオの部分でしょう。それは明らかにボヘミアの冒頭音楽(レントラー)を思い出させます。
そして、そこまで明確なものではなくても、いわゆるボヘミア的な情念が作品全体に散りばめられているのを感じとることは容易です。

初演は1893年、ドヴォルザークのアメリカでの第一作として広範な注目を集め、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルの演奏で空前の大成功を収めました。
多くのアメリカ人は、ヨーロッパの高名な作曲家であるドヴォルザークがどのような作品を発表してくれるのか多大なる興味を持って待ちかまえていました。そして、演奏された音楽は彼の期待を大きく上回るものだったのです。

それは、アメリカが期待していたアメリカの国民主義的な音楽であるだけでなく、彼らにとっては新鮮で耳新しく感じられたボヘミア的な要素がさらに大きな喜びを与えたのです。
そして、この成功は彼を音楽院の院長として招いたサーバー夫人の面目をも施すものとなり、2年契約だったアメリカ生活をさらに延長させる事につながっていくのでした。


ウィーンフィルの豊かな響きが魅力的


どこかで、50年代のウィーンフィルは東欧やロシア系の音楽を演奏するときはいささか雑になるという感想を述べたことがあります。
自分で書いておきながらいつのことだったかと思いをめぐらせて思い当たったのがシルヴェストリとのリムスキー=コルサコフの録音について書いたときでした。
こういう東欧やロシアのスラブ系の音楽を演奏するときのウィーンフィルの「癖」みたいなものがまともに出てしまっているように思われるのです。通常の指揮者ならば、そう言う好き勝手に対してある程度はコントロールを効かせようとするのですが、シルヴェストリはそう言うオケの流れに対して絶対に否定的な態度は取らず、その流れの中で最善を尽くします。
おそらく、そう言う姿勢故に、便利な指揮者としてレーベルから重宝されたのかもしれません。

そう言えば、その組み合わせによるドヴォルザークの「新世界より」も強烈な演奏でした。

しかし、ここでクーベリックとの組み合わせによるドヴォルザークを聞いているうちに、それは「癖」というよりは彼らなりの確固としたスタイルと言った方がいいのかもしれないと思うようになりました。
おそらく、クーベリックのドヴォルザークを聞こうと思えば、ベルリンフィルとの録音を聞くべきでしょう。あそこでは、カラヤン統治下のベルリンフィルとは思えないほどにクーベリックの主張がすみずみまで貫徹しています。聞くところによると、ドヴォルザークの録音に関してはクーベリックに当時は一任されており、ほぼ全ての録音において対向配置で録音を行っていました。
ベルリン・フィルというのは、指揮者の力量を認めれば素直にその指示に従うオケだったようです。

しかし、50年代のウィーンフィルというのは、東欧系の音楽に対しては彼らなりの確信を持っていたようで、そのスタイルを決して崩そうとしなかったようです。とは言え、クーベリックはシルヴェストリほど野放図にオケを放し飼いにすることはせず、かといって、己の意志を貫徹することも出来ずそれなりのポイントで折り合いをつけてしまったようです。
そのおかげでシルヴェストリのような「暴演」になることはなくそれなりの枠の中にはおさまっているのですが、その事が逆にこの録音ならではの狙いが希薄になっていることは否めません。

ですから、この50年代にDeccaで行ったウィーンフィルとの録音はクーベリックにとってどこまで幸せであったのか疑問に感じてしまうのです。
ただし、決して悪い演奏ではありません。クーベリックはウィーンフィルの意志は最大限に配慮しているのは事実ですから、そこには50年代のウィーンフィルが持っていた豊かで芳醇な響きが封じ込められています。

つまりは、この一連のDecca録音は、指揮者であるクーベリックではなくて、50年代の魅力的なウィーンフィルを聞くべき録音だと言えるのでしょう。