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ドビュッシー:12の練習曲 第1巻


(P)モニク・アース:1951年録音をダウンロード

  1. Debbussy:Etudes Book1 [1.Pour les j cinq doigts k d'apres monsieur Czerny]
  2. Debbussy:Etudes Book1 [2.Pour les tierces]
  3. Debbussy:Etudes Book1 [3.Pour les quartes]
  4. Debbussy:Etudes Book1 [4.Pour les sixtes]
  5. Debbussy:Etudes Book1 [5.Pour les octaves]
  6. Debbussy:Etudes Book1 [6.Pour les huit doigts]

ドビュッシーのピアノ作品の概観



フェルベールのおかげでドビュッシーのピアノ曲を少しは楽しく聴けるようになってきました。少なくとも、以前のような「聞いているうちに必ず眠ってしまう」というような拒否感はなくなってきました。そして、これはいつも不思議に思うのですが、そうやって一度拒否感がなくなってしまうと、今まで「眠って」しまっていた演奏もそれなりに面白く聴けるようになってくるのです。
不思議と言えば不思議な人間の感性です。

そして、そうやってある程度まとまってドビュッシーのピアノ曲を聴いていると、以下のような区分けも何となく納得できます。
ドビュッシーのピアノ強は、その創作年代と発展の過程をもとにすると、以下のように区分されるそうなのです。


  1. 1880年~1890年:青春時代の作品(「2つのアラベスク」「夢想」など)

  2. 1890年~1901年:成熟に達する過渡期の作品(「ベルガマスク組曲」「ピアノのために」など)

  3. 1903年~1907年:成熟期の最初の作品(「版画」「映像」」など)

  4. 1908年~1909年:一段落して内輪に眼が向けられた作品(「子供の領分」「ハイドン礼賛」など)

  5. 1909年~1913年:成熟期の次のステップに向かう作品(「前奏曲集」など)

  6. 1915年~:ドビュッシー音楽の行き着いた姿を示す作品(「練習曲集」)



もちろん、第6期を前にしても「おもちゃ箱」とか「英雄的な子守歌」のようなそれほど重要とは思われない作品は存在します。
しかし、こうして眺めてみると、ドビュッシーのピアノ音楽がどのように成熟していったのかが納得できます。

初期の作品は、例えば「2つのアラベスク」や「ベルガマスク組曲」のように、ドビュッシーらしい響きを持ちながらも、その旋律ラインの美しさが特徴的です。
ですから、ドビュッシーの作品で人気があるのはこの時期の作品に集中しています。

「2つのアラベスク」の第1曲「プレリュード」冒頭の美しいアルペッジ、「ベルガマスク組曲」第3曲「月の光」のロマンティックな情緒は高いポピュラリティを持っています。
司会、これを持ってドビュッシーのピアノ曲を代表させると大きな間違いを引き起こします。

やがて、彼は「版画」において新しい方向性を模索し始めます。
専門的な音楽教育とは無縁だった人なので詳しいことはよく分からないのですが、聞くところによると、ここで初めてドビュッシーは古典的な和声理論ではNGとされていることを導入したらしいです。
具体的には、第1曲の冒頭から嬰ト音と嬰へ音が鳴るらしいのですが、そんな小難しいことは分からなくても、この作品の冒頭部分を聞くだけで、には今までにない響きが存在することは容易に了簡できるはずです。
そう言う意味で、一般的に「印象派」と呼ばれるドビュッシー的な世界はここからスタートします。

そして、この方向性はこれに続く2集の「映像」によってさらに先へと進められます。
そこでは、音楽は機能的な和声から自由となり、旋律や旋律の展開ではなく浮遊する響きによって自然の情景が描かれていきます。そして、ここで用いられた繊細なアルペッジョが絵画の分野における印象派の光と影の世界を連想させるものだったので、この「印象派」という言葉がドビュッシーなどにも用いられたのでしょう。

この新しい「革新的な世界」は娘エマの誕生で一段落します。(子供の領分)
しかし、この親バカ期をくぐり抜けたドビュッシーは最後の段階へと歩を進めていきます。それが、1909年から取り組まれた「前奏曲集」です。

「版画」や「映像」では少なくとも3曲ずつまとめて、さらには「標題」も与えてある種のまとまりを与えようとしていました。
しかし、ここにきて、ドビュッシーは何らかのまとまりを持って作品集とすることを放棄します。ですから、ショパンへのオマージュである「前奏曲集」なのですが、ここではショパンのように24曲で一つのまとまりとなることを拒否しています。
また、今までの作品では必ず与えられていた「標題」もここでは後退して、標題らしきものは曲の終わりに括弧書きで示されるにとどまります。結果として、音楽から叙情的な旋律はますます後退し、それに変わって音色とリズムによって描き出されるヴィジョンこそが重要になっていきます。

そして、最後の「練習曲集」に至ってドビュッシーの挑戦は終わります。
ここでは一つ一つの和声は全体の構成の中で位置づけられて意味を持つのではなく、まさに響きそのものとして存在することで音楽を成り立たせています。
彼はこの作品に「和声の花の下に過酷な技巧をつつみ隠している」と述べています。ドビュッシーが生涯にわたって追求した和声の花、微妙な陰影と精緻な響きがここに咲き誇っています。

「12の練習曲集」

ドビュッシーはこの作品では指使いを一切示しませんでした。
彼は「指使いのないのが、ひとつのすてきな練習問題になり、・・・次の不滅の言葉の真実を立証する。<自分でするのが一番いい>。自分の指使いをさがそう。」とこの作品の序文に書いています。

第1部


  1. 「五本の指のための練習曲、チェルニー氏による Pour les ≪ cinq doigts ≫ d'apres monsieur Czerny」(ハ長調)

  2. 「三度のための練習曲 Pour les tierces」(変ロ長調)

  3. 「四度のための練習曲 Pour les quartes」(ヘ長調)

  4. 「六度のための練習曲 Pour les sixtes」(変ニ長調)

  5. 「オクターヴのための練習曲 Pour les octaves」(ホ長調)

  6. 「八本の指のための練習曲 Pour les huit doigts」(変ト長調)




第2部


  1. 「半音階のための練習曲 Pour les degres chromatiques」(無調)

  2. 「装飾音のための練習曲 Pour les agrements」(ヘ長調)

  3. 「反復音のための練習曲 Pour les notes repetees」(無調)

  4. 「対比的な響きのための練習曲 Pour les sonorites opposees」(おおむね嬰ハ短調)

  5. 「組み合わされたアルペッジョのための練習曲 Pour les arpeges composes」(変イ長調)

  6. 「和音のための練習曲 Pour les accords」(イ短調)




私はこういうドビュッシーしか受け入れることが出来ない


「Monique Haas」と書いて「モニク・アース」と読む、遠い昔第2外国語で仕方なしにフランス語をとったときに、冒頭の「H」は発音しなかったんだ等という、どうでもいいことを思い出しました。
そう言えば、フランス語って名詞に性別があったけれども、ジェンダーの問題が広く語られる今の時代にどうなっているんでしょうね。英語では「ジェンダー ニュートラル」なんて事が言われているみたいですが、フランス人は頑固だからその辺はあまり変わっていないのでしょうかね。(調べてみると、変えようという動きもあるみたいですが、それへの批判も根強いようです)

さて、「モニク・ハース」ではなくて「モニク・アース」ですが、これもまた私の視野には全く入っていなかったピアニストでした。
フランスの女性ピアニストと言えば私などは真っ先に「マルグリット・ロン」が思い浮かぶのですが、アースはロンよりも3世代くらい後の時代のピアニストです。ですから、彼女の時代は、マルグリット・ロンに代表される「ハイ・フィンガー・テクニック」からは離れつつあったのですが(今の日本では今も「ニャンコの手」とか言って根強いらしいです)、アースは新しい潮流も見すえながら、それでもロンが目指したような流麗さと真珠の玉を転がしたような粒だった音色も大切にしていたようです。

それが、一番よく分かるのが彼女のドビュッシーの演奏です。
すでに何度も書いているのですが、私はどうにもこうにも、あの茫漠としたドビュッシーの音楽が苦手です。しかし、そんな中で、ほとんど唯一と言っていいほどに納得できたのが「アルベール・フェルベール」による演奏でした。

私が苦手だったのは、あの茫洋としたドビュッシーの響きです。
何を言ってるんだ、それこそがドビュッシーの魅力なんだろう!と言われそうなのですが、まさにそれこそが「嫌い」だったのです。
しかし、このフェルベールのピアノによるドビュッシーには、そう言う茫洋とした雰囲気が希薄です。
おかしな言い方ですが、その茫洋とした響きがクリアに表現されているような気がするのです。

振り返ってみれば、そんな事を書いていました。

そして、それと同じ事がこのモニク・アースのドビュッシーにもピッタリとあてはまるのです。
つまりは、ドビュッシーらしい雰囲気で音楽を糊塗してしまう人がほとんどなのですが、彼女はフェルベールと同じように知的に表現しているのです。つまりは、ドビュッシーの茫洋とした響きをクリアに表現するという矛盾した二つの要素を同時に実現しているのです。
ですから、玄人筋ではフランスもの、とりわけドビュッシーとラヴェル演奏においては彼女の右に出る者はいないという評価があるようです。
しかし、考えてみればフェルベールよりもこのアースの方が先に録音されているんだから、アースがフェルベールを連想させるのでなくて、フェルベールがアースを連想させるというのが時系列から言えば正しいんですよね。ただ、私はフェルベールで感心してその後にアースを聞いたのでそう言う感覚になってしまったようです。

もちろん、他者の評価に寄りかかってはいけませんが、苦手なドビュッシーをそれなりに最後まで聴かせてくれるピアニストであることだけは保証できます。
もっとも、そう言うドビュッシーはドビュッシーではないと言う人がいてもそれは否定しません。

しかし、私はこういうドビュッシーしか受け入れることが出来ないのです。