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ベートーベン:交響曲第2番 ニ長調, Op.36
フルトヴェングラー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1948年10月3日録音をダウンロード
- Beethoven:Symphony No.2 in D major , Op.36 [1.Adagio Molto; Allegro Con Brio]
- Beethoven:Symphony No.2 in D major , Op.36 [2.Larghetto]
- Beethoven:Symphony No.2 in D major , Op.36 [3.Scherzo]
- Beethoven:Symphony No.2 in D major , Op.36 [4.Allegro Molto]
ベートーベンの緩徐楽章は美しい。
これは以外と知られていないことですが、そこにベートーベンの知られざる魅力の一つがあります。
確かにベートーベンが最もベートーベンらしいのは驀進するベートーベンです。
交響曲の5番やピアノソナタの熱情などがその典型でしょうか。
しかし、瞑想的で幻想性あふれる音楽もまたベートーベンを構成する重要な部分です。
思いつくままに数え上げても、ピアノコンチェルト3番の2楽章、交響曲9番の3楽章、ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス、ヴァイオリンソナタのスプリング、そしてピアノソナタ、ハンマークラヴィーアの第3楽章。
そう言う美しい緩徐楽章のなかでもとびきり美しい音楽が聞けるのが、交響曲第2番の第2楽章です。
ベートーベンの交響曲は音楽史上、不滅の作品と言われます。しかし、初期の1番・2番はどうしても影が薄いのが事実です。
それは3番「エロイカ」において音楽史上の奇跡と呼ばれるような一大飛躍をとげたからであり、それ以後の作品と比べれば確かに大きな落差は否めません。しかし、ハイドンからモーツァルトへと引き継がれてきた交響曲の系譜のなかにおいてみると両方とも実に立派な交響曲です。
交響曲の1番は疑いもなくジュピターの延長線上にありますし、この第2番の交響曲はその流れのなかでベートーベン独自の世界があらわれつつあります。
特に2番では第1楽章の冒頭に長い序奏を持つようになり、それが深い感情を表出するようになるのは後年のベートーベンの一つの特徴となっています。また、第3楽章はメヌエットからスケルツォへと変貌を遂げていますが、これもベートーベンの交響曲を特徴づけるものです。
そして何よりも第2楽章の緩徐楽章で聞ける美しいロマン性は一番では聞けなかったものです。
しかし、それでも3番とそれ以降の作品と併置されると影が薄くなってしまうのがこれらの作品の不幸です。第2楽章で聞けるこの美しい音楽が、影の薄さ故に多くの人の耳に触れないとすれば実に残念なことです。
後期の作品に聞ける深い瞑想性と比べれば甘さがあるのは否定できませんが、そう言う甘さも時に心地よく耳に響きます。
もっと聞かれてしかるべき作品だと思います。
残念な話
昔の指揮者というのは「何でもかんでも振らせていただきます!」という万能タイプというか、便利屋タイプというか、そういう人はほとんどいませんでした。
その中でも、クナッパーツブッシュやフルトヴェングラーはとりわけレパートリーが狭い人でした。クナなどは、ワーグナーとブルックナー、さらにベートーベンとブラームスあたりで「終わり!」みたいな感じです。もちろん、バッハやハイドンなどにも優れた演奏は残していますが、それらはあくまでも片手間の「手すさび」みたいなもので、彼の興味はほとんど最初の二人、ワーグナーとブルックナーだけに集中していたように見えます。
フルヴェンはそれと比べればもう少しはましですが、それでも「限られた作曲家の限られた作品」しか取り上げませんでした。フルトヴェングラーの棒になる演奏をたくさん聴きたいという私のような人間にとっては、「限られた作曲家」しか取り上げなかったというのは少しは我慢はできるのですが(;^_^A、「限られた作品」しか取り上げなかったというのが実に困った(?)話なのです。
例えば、彼にとっては最も中心的なレパートリーであったはずのベートーベンの交響曲でさえ、2番と8番に関してはあまり取り上げることはなかったのです。
おかげで、2番に関しては、この貧弱な録音が巨匠が残した唯一の録音ということになってしまっているのです。8番に関しても、世間一般に広く流通しているのは録音状況があまり芳しくないストックホルム盤です。ただし、8番に関しては、ザルツブルグ音楽祭でのライブ(1954. 8.30)やベルリンフィルとのライブ(1953. 4.14)などがその後に発掘されて、いささか状況は好転したのですが、2番に関しては状況は絶望的です。
実に残念な話ではありますが、「あと2番と8番を録音すれば「全集」として完成するから何とか頑張ろう!」などというような発想はLPが広く普及してからの時代のものなのでしょう。
貧弱なものであっても、一つは残っていたことに感謝すべきなのかもしれません。