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ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調, Op.95 「セリオーソ」
レナー弦楽四重奏団:1926年11月4&5日録音をダウンロード
- Beethoven:String Quartet No.11 in F minor Op.95 "Serioso" [1.Allegro con brio]
- Beethoven:String Quartet No.11 in F minor Op.95 "Serioso" [2.Allegretto ma non troppo]
- Beethoven:String Quartet No.11 in F minor Op.95 "Serioso" [3.Allegro assai vivace ma serioso - Piu Allegro]
- Beethoven:String Quartet No.11 in F minor Op.95 "Serioso" [4.Larghetto espressivo Allegretto agitato - Allegro]
ベートーベンの心の内面をたどる
ベートーベンの創作時期を前期・中期・後期と分けて考えるのは一般的です。ハイドンやモーツァルトが築き上げた「高み」からスタートして、その「高み」の継承者として創作活動をスタートさせた「前期」、そして、その「高み」を上り詰めた極点において真にベートーベンらしい己の音楽を語り始めた「中期」、やがて語り尽くすべき己を全て出力しきったかのような消耗感を克服し、古典派のスタイルの中では誰も想像もしなかったような深い瞑想と幻想性にあふれる世界に分け入った「後期」という区分です。
ベートーベンという人はあらゆるジャンルの音楽を書いた人ですが、交響曲とピアノソナタ、そして弦楽四重奏はその生涯を通じて書き続けました。とりわけ、弦楽四重奏というジャンルは第10番「ハープ」と第11番「セリオーソ」が中期から後期への過渡的な性格を持っていることをのぞけば、その他の作品は上で述べたそれぞれの創作時期に截然と分類することができます。さらに、弦楽四重奏というのは最も「聞き手」を意識しないですむという性格を持っていますから、それぞれの創作時期を特徴づける性格が明確に刻印されています。
そういう意味では、彼がその生涯において書き残した16曲の弦楽四重奏曲を聞き通すと言うことは、ベートーベンという稀代の天才の一番奥深いところにある心の内面をたどることに他なりません。
過渡期の2作品
この分野における「傑作の森」を代表するラズモフスキーの3曲が書かれるとベートーベンは再び沈黙します。おそらくのこの時期のベートーベンというのは「出力」に次ぐ「出力」だったのでしょう。己の中にたぎる「何者」かを次々と「音楽」という形ではき出し続けた時期だったといえます。
ですから、この「分野」においてはとりあえずラズモフスキーの3曲で全て吐き出し尽くしたという思いがあったのでしょう。しばらくの沈黙の後に作り出された2曲は、ラズモフスキーと比べればはるかにこぢんまりとしていて、音楽の流れも肩をいからせたところは後退して自然体になっています。しかし、後期の作品に共通する深い瞑想性を獲得するまでには至っていませんから、これを中期と後期の過渡期の作品と見るのが一般的となっています。
弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 OP.74「ハープ」
第1楽章の至る所であらわれるピチカートがハープの音色を連想させることからこのニックネームがつけられています。
この作品の一番の聞き所は、ラズモフスキーで行き着くところまで行き着いたテンションの高さが、一転して自然体に戻る余裕を聞き取るところにあります。ですから、ラズモフスキー第3番のぶち切れるような終結部を聞いた後にこの作品を続けて聞くと得も言われぬ「味わい」があったりします。(^^;
弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調OP.95「セリオーソ」
第10番「ハープ」で縮小した規模は、この「セリオーソ」でさらに縮んでいきます。もうこの作品からは中期の「驀進するベートーベン」は最終楽章の終結部にわずかばかりかぎ取ることができるぐらいで、その他の部分はベートーベン自身が名付けた「セリオーソ」という名前通りにどこか「気むずかしい」表情でおおわれています。
今となっては二度と聞くことのできない演奏スタイル
全くの私見ですが、ベートーベンの弦楽四重奏曲の演奏史を遡っていけば、ブッシュ弦楽四重奏団とブダペスト弦楽四重奏団による戦前の録音あたりで流れが分かれたような気がします。そして、そこから遡って源流を辿ればこのレナー弦楽四重奏団による1930年代の世界初の全曲録音に辿り着くのでしょう。
つまりは、この二つのカルテット、ブッシュ弦楽四重奏団とブダペスト弦楽四重奏団はそのオリジンとも言うべきレナー弦楽四重奏団から引き継ぎながら、そこから新しく踏み出した方向性が異なったのでしょう。
そのあたりのことは、彼らの録音を紹介したときに少しばかり詳しくふれました。
そして、「このレナー弦楽四重奏団による全集もいつかは紹介する必要はあるとは思っているのですが、それよりも先に紹介したいと思える録音がたくさん存在しますので、それはいつのことになるかは分かりません。」と書いました。
しかし、どうやら、やっとレナー弦楽四重奏団に順番が回ってきたようです。
歴史的に重要な録音をFlacファイル化したいと書いたときに、一番要望が多かったのがレナー弦楽四重奏団でした。おそらく、彼らの録音に関してはYoutubeの方であげているので、それに気づいている方の中からもっと良い音質で聞きたいという要望があるようでした。
確かに、レナー弦楽四重奏団のベートーベンなんて、とんでもなく古い化石時代のような録音なのですが、昨今のハイテクカルテットを聞きあきた耳にはかえって新鮮に聞こえるから不思議です。
その最大の要因は、今のハイテク・カルテットが失ってしまっているこの上もなく上品で典雅な雰囲気を強く持っているからでしょう。
しかし、その反面として、ベートーベンの音楽が持っている構造性への切り込みという点では物足りなさを感じるかもしれません。世間ではその「構造性」のことを、「精神性」という便利な言葉で表現するのですが、まあ言ってみればアダージョ楽章は素晴らしくても、全体的にはベートーベンらしいがっしりとした無骨さみたいなものは希薄なのです。
もちろん、復刻音源によって聞こえ方は随分違うという話も聞くのですが、ファースト・ヴァイオリンが主導した主情的な演奏であることには違いはないでしょう。
そして、そう言うオリジンからの流れを受けて、出来る限りその様な主情性を排して、その音楽が持っている構造を明瞭に描き出す方向に足をすすめたのがブダペスト弦楽四重奏団であり、逆に、レナー弦楽四重奏団が持っていた強い主情性を捨てることなく、その上にベートーベンが持っている構造性というか、無骨さみたいなものを追求していこうとしたのがブッシュ弦楽四重奏団だったと言えます。
しかし、あまりそう言う難しいことは考える必要の無かった時代に、ひたすら強い主情性に貫かれたベートーベンを演奏しきったレナー弦楽四重奏団には不思議な魅力があります。
そして、そう言う魅力は時代を重ねるにつれて不思議な「オンリー・ワン的」なものへと昇華されていきます。つまりは時間が演奏に磨きをかけるという不思議なことがおこるのです。
ベートーベンと言えば構築性デュナーミクの拡大などが言われるのですが、それと同じように私が心動かされるのは「ロマンティシズム」があふれ出す部分である事は正直に告白しなければいけません。
それ故に、もっと分かりやすく言ってしまえばレナー弦楽四重奏団の「泣き節」に強い魅力を感じてしまうのです。
たとえば、第1番の弦楽四重奏曲からして、その第2楽章に溢れている「若きベートーベンの悲劇性への憧れ」みたいなものが見事に表現されています。
しかし、重要なことは、音楽とは「泣き節」だけでは成立しないので、その前の「第1楽章」において充分なお膳立てがされていることです。ある人によれば、この第1楽章は「ロミオとジュリエット」の墓場のシーンからイメージされたと言います。
つまりは、第1楽章がその様なシーンとして描かれているからこそ、この第2楽章の「泣き節」が生きてくるのです。
そして、弦楽四重奏曲と言えば4人の奏者が対等に会話を交わすように演奏するものだというのが今では常識ですが、レナー弦楽四重奏団では主導権はファースト・ヴァイオリンがしっかりと握っています。そしてその事はブッシュ弦楽四重奏団においても同様だったのですが、レナー弦楽四重奏団ではその事がよりはっきりと聞き取れます。
つまりは、今の耳からすれば、そのスタイルは極めて古いものだと言わざるを得ないのです。
しかし、そのスタイルこそが魅力的な「泣き節」を生み出していることも事実なのです。
しかしながら、このあとの時代をすでに知っている私たちにとって、この二つの分かれ道から大きな流れへとつながっていったのはブダペスト弦楽四重奏団が歩み出した方だったことを知っています。それ以降はジュリアードやアルバン・ベルクなどのカルテットが主流となり、レナー弦楽四重奏団やブッシュ弦楽四重奏団が選んだ道を辿るものは絶えてしまったのです。
つまりは、レナー弦楽四重奏団の演奏スタイルは、今となってはもう二度と聞くことのできない演奏スタイルになってしまったのです。
とは言え、こんな古い時代の録音を、さらに言えばそんな古い録音で時代に取り残されたような演奏スタイルを聞く気は起きないという人もいるでしょう。
そう言う人は、取りあえずは第1番の「第2楽章」、第12番の「第2楽章」、第13番の「第5楽章」、第15番の「第3楽章」、さらには最後の第16番の「第3楽章」あたりを聞いてみてください。これは、ブッシュ弦楽四重奏団の録音を紹介したときにも同じ事を書きました。
もちろん、こういう聴き方は邪道であることは分かっているのですが、それでもそのあたりだけでも聞いてもらえば、「オー、意外といいじゃない!」となり、さらには「20年代、30年代の録音と言っても思った以上に音がいいね」につながり、さらに突っ込んでみればこういう「泣き節もいいね」と思ってもらえばしめたものです。(^^;
もしも、そうであるならば、その時こそあらためて作品全体を聞き直してみてください。
老練な聞き手の方にとって入らぬ老婆心かもしれませんが、こういう演奏は昨今のハイテクカルテットを聞きあきた耳にはかえって新鮮に聞こえるはずだと信じています。