FLAC モノラルファイルデータベース>>>Top
カリンニコフ:交響曲第1番 ト短調
ヘルマン・シェルヘン指 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1951年6月5日録音をダウンロード
- Kalinnikov:Symphony No.1 in G minor [1.Allegro moderato]
- Kalinnikov:Symphony No.1 in G minor [2.Andante commodamente]
- Kalinnikov:Symphony No.1 in G minor [3.Scherzo. Allegro non troppo]
- Kalinnikov:Symphony No.1 in G minor [4.Finale. Allegro moderato]
青春の交響曲
カリンニコフの交響曲に光を当てたのはナクソスの大きな功績でした。今となっては可もなく不可もなくの演奏と録音ではあるのですが、作品の持つ青春の憂愁は十分に伝わるクオリティで世に送り出した功績は小さくありません。
テオドレ・クチャル指揮 ウクライナ国立交響楽団 1994年11月2日~6日録音
しかし、調べてみると、この作品は戦前からそれなりに認知されていてコンサートでもよく取り上げられていたようなのです。日本国内でも昭和の初め頃に近衛秀麿やエマヌエル・メッテルによって何度か取り上げられていました。
ちなみに、近衛は1924年のベルリンデビューでもカリンニコフの交響曲1番を取り上げていたという情報もあるほどです。
1924年1月18日(ベートーベン・ザール)
近衛秀麿指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
チェロ:フェリックス・ロベルト・メンデルスゾーン
アルト:フリーダ・ランゲルドルフ
モーツァルト/歌劇「劇場支配人」序曲
ラロ/チェロ協奏曲ニ短調
近衛秀麿(編曲)/「子守歌」「舟歌」など4曲の日本歌曲
カリンニコフ/交響曲第1番ト短調
また、トスカニーニもこの作品を録音しています。
トスカニーニ指揮 NBC交響楽団 1943年録音
そして、カリンニコフの母国であるロシアでは「忘れられた音楽」になるはずはなく、第2番の交響曲に関してはムラヴィンスキーもよく取り上げていました。
しかし、なんと言っても、カリンニコフと言えばスヴェトラーノフでしょう。ロシア国立交響楽団を指揮した「1975年盤」は今もってこの作品の代表盤としての地位を失っていません。
さらに、彼は来日してNHK交響楽団を振ったときにもカリンニコフを取り上げているのです。
NHK交響楽団 第1192回定期公演(1993年2月3、4日)
この定期公演の様子は「N響伝説のライヴ」として、2月3日の演奏がCD化されています。
しかし、それでも、この作品の素晴らしさを多くの人に知らしめたのはナクソスの「クチャル盤」でした。未だにCDが馬鹿高かった時代に「廉価盤」という世界を切り開き、そこへ「知られざる名曲」を次々と紹介していったナクソスの功績は今振り返ってみても大きなものがありました。
残念ながら、ボックス盤という形での「たたき売り」が当たり前の時代になった事で、ナクソスの歴史的役割は終わったのですが、この事ははっきりと明記していきたいと思います。
作品については聴いてもらえば充分でしょう。とりわけ第一楽章の第2主題は一度耳にすれば絶対に忘れることのないメロディでしょう。この主題は最終楽章でもう一度引用されるのですが、その強い印象ゆえに作品全体の統一感を与える核となっています。
最後に簡単にカリンニコフの略歴を記しておきます。
- 1866年 誕生。父は警察官だったが、その地位に見合わない薄給で、非常な困窮の中で育つ。
- 1880年 14歳で聖歌隊に加わる。
- 1884年 音楽の才能を見いだされで,モスクワ音楽学校に入学。学費を稼ぐために,複数のオーケストラでエキストラとして演奏。
- 1889年 リンニコフの最初の作品,交響詩「ニンフ」(The Nymphs)が完成
- 1890年 結婚。しかし,まもなく結核を患う。
- 1892年 カリンニコフはチャイコフスキーと会い,激励され,出版社Jurgensonに紹介される。
- 1893年 結核の治療のため,南クリミアの比較的温暖な場所を捜して,職を辞することを余儀なくされる。
- 1895年 交響曲第1番ト短調を完成。彼は,何とか,この曲を演奏しようと考え,推薦を得るため,リムスキー・コルサコフへ,交響曲のコピーを送りました。しかし,1897年2月20日 交響曲第1番の初演が大成功をおさめる。
- 1900年 ラフマニノフが,ヤルタに彼を訪問し援助の手をさしのべる。
- 1901年1月 ヤルタで死去。
交響曲としての構築性に重点をおいた演奏
カリンニコフの交響曲は「青春の交響曲」と呼ばれてきました。聞けば分かるように、ロシア民謡の素材を上手に使うことで成り立っている国民楽派の交響曲と分類できる音楽です。ですから、多くの指揮者は、作品が持つメランコリックな憂愁や突き進む激情みたいなものに焦点を当てて演奏してあげるのが作曲家への「温情」というものでした。
それに対して、このシェルヘンの演奏はそう言う情緒的な側面よりは、交響曲としての構築性に重点をおいたものです。その意味では、コンドラシンやムラヴィンスキーなどと共通する部分があるのかもしれません。
ただし、ムラヴィンスキーのような特異な主観性よりは、作品の姿をあるがままに映し出そうとするコンドラシンのやり方に近いのかもしれません。
しかし、そう言うアプローチは作品そのものに何らかの弱さが存在していれば、その弱さを明け透けにさらけ出してしまうことに繋がるのであって、このシェルヘンの演奏はまさにその典型のような演奏になっています。はっきり言って、その弱さ故に、こういうスタイルで演奏されるとある種の冗長性を感じずにはおれません。
それは、同時期に録音したブラームスの1番と聞き比べてみれば違いは歴然としてしまいます。
確かに、第1楽章のあの有名な主題は実に清楚に歌われていますが、それを取り立てて強調するわけではありません。また、金管楽器をかなり強奏させることで、構成の弱さに渇を入れようとしているように聞こえる部分もあります。
コンドラシンの演奏に対して「第2楽章の「Andante comodamente」では素っ気ないほどに叙情性を排除していますし、最終楽章の「Allegro moderato」でも激情に溺れることなく走り去ってしまいます。」と評したのですが、その言葉はこのシェルヘンの演奏にもそっくりそのままあてはまります。
多くの指揮者は、この早逝の作曲家への愛情ゆえに、彼の美質を最大限引き出すために努力を惜しみません。スヴェトラーノフ等はその典型でしょう。
しかし、コンドラシンもシェルヘンも、そう言うことは一切やろうとしていないように聞こえます。それ故に、この作品に青春のメランコリックを求める人にとっては大いに不満の残る演奏となるでしょう。
ある意味では、公開処刑とまでは言わないものの、ある種の残酷ささえ感じるザッハリヒカイトな演奏であり、それこそがシェルヘンという指揮者の見落とすことのできない一つの本質であったことを再確認させてくれます。