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モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調, K.218


(Vn)ワルター・バリリ:クレメンス・クラウス指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1944年4月23日録音をダウンロード

  1. Mozart:Violin Concerto No.4 in D major, K.218 [1.Allegro]
  2. Mozart:Violin Concerto No.4 in D major, K.218 [2.Andante cantabile]
  3. Mozart:Violin Concerto No.4 in D major, K.218 [3.Rondeau: Andante grazioso]

断絶と飛躍



モーツァルトにとってヴァイオリンはピアノ以上に親しい楽器だったかもしれません。何といっても、父のレオポルドはすぐれたヴァイオリン奏者であり、「ヴァイオリン教程」という教則本を著したすぐれた教師でもありました。
ヴァイオリンという楽器はモーツァルトにとってはピアノと同じように肉体の延長とも言える存在であったはずです。
そう考えると、ヴァイオリンによるコンチェルトがわずか5曲しか残されていないことはあまりにも少ない数だと言わざるを得ません。さらにその5曲も、1775年に集中して創作されており、生涯のそれぞれの時期にわたって創作されて、様式的にもそれに見あった進歩を遂げていったピアノコンチェルトと比べると、その面においても対称的です。

創作時期を整理しておくと以下のようになります。


  1. 第1番 変ロ長調 K207・・・4月14日

  2. 第2番 ニ長調 K211・・・6月14日

  3. 第3番 ト長調 K216・・・9月12日

  4. 第4番 ニ長調 K218・・・10月(日の記述はなし)

  5. 第5番 イ長調 K219・・・12月20日



この5つの作品を通して聞いたことがある人なら誰もが感じることでしょうが、2番と3番の間には大きな断絶があります。
1番と2番はどこか習作の域を出ていないかのように感じられるのに、3番になると私たちがモーツァルトの作品に期待するすべての物が内包されていることに気づかされます。

並の作曲家ならば、このような成熟は長い年月をかけてなしとげられるのですが、モーツァルトの場合はわずか3ヶ月です!!
アインシュタインは「第2曲と第3曲の成立のあいだに横たわる3ヶ月の間に何が起こったのだろうか?」と疑問を投げかけて、「モーツァルトの創造に奇跡があるとしたら、このコンチェルトこそそれである」と述べています。そして、「さらに大きな奇跡は、つづく二つのコンチェルトが・・・同じ高みを保持していることである」と続けています。

これら5つの作品には「名人芸」というものはほとんど必要としません。
時には、ディヴェルティメントの中でヴァイオリンが独奏楽器の役割をはたすときの方が「難しい」くらいです。
ですから、この変化はその様な華やかな効果が盛り込まれたというような性質のものではありません。
そうではなくて、上機嫌ではつらつとしたモーツァルトがいかんなく顔を出す第1楽章や、天井からふりそそぐかのような第2楽章のアダージョや、さらには精神の戯れに満ちたロンド楽章などが、私たちがモーツァルトに対して期待するすべてのものを満たしてくれるレベルに達したという意味における飛躍なのです。
アインシュタインの言葉を借りれば、「コンチェルトの終わりがピアニシモで吐息のように消えていくとき、その目指すところが効果ではなくて精神の感激である」ような意味においての飛躍なのです。

さて、ここからは私の独断による私見です。
このような素晴らしいコンチェルトを書き、さらには自らもすぐれたヴァイオリン奏者であったにも関わらず、なぜにモーツァルトはこの後において新しい作品を残さなかったのでしょう。
おそらくその秘密は2番と3番の間に横たわるこの飛躍にあるように思われます。

最初の二曲は明らかに伝統的な枠にとどまった保守的な作品です。言葉をかえれば、ヴァイオリン弾きが自らの演奏用のために書いた作品のように聞こえます。(もっとも、これらの作品が自らの演奏用にかかれたものなのか、誰かからの依頼でかかれたものなのかは不明ですが・・・。)
しかし、3番以降の作品は、明らかに音楽的により高みを目指そうとする「作曲家」による作品のように聞こえます。

父レオポルドはモーツァルトに「作曲家」ではなくて「ヴァイオリン弾き」になることを求めていました。彼はそのことを手紙で何度も息子に諭しています。
「お前がどんなに上手にヴァイオリンが弾けるのか、自分では分かっていない」

しかし、モーツァルトはよく知られているように、貴族の召使いとして一生を終えることを良しとせず、独立した芸術家として生きていくことを目指した人でした。それが、やがては父との間における深刻な葛藤となり、ついにはザルツブルグの領主との間における葛藤へと発展してウィーンへ旅立っていくことになります。
その様な決裂の種子がモーツァルトの胸に芽生えたのが、この75年の夏だったのではないでしょうか?

ですから、モーツァルトにとってこの形式の作品に手を染めると言うことは、彼が決別したレオポルド的な生き方への回帰のように感じられて、それを意図的に避け続けたのではないでしょうか。
注文さえあれば意に染まない楽器編成でも躊躇なく作曲したモーツァルトです。
その彼が、肉体の延長とも言うべきこの楽器による作曲を全くしなかったというのは、何か強い意志でもなければ考えがたいことです。

しかし、このように書いたところで、「では、どうして1775年、19歳の夏にモーツァルトの胸にそのような種子が芽生えたのか?」と問われれば、それに答えるべき何のすべも持っていないのですから、結局は何も語っていないのと同じことだといわれても仕方がありません。
つまり、その様な断絶と飛躍があったという事実を確認するだけです。


まさに「完璧」


ワルター・バリリが独奏者として残した録音は数少ないので、この音源を見つけたときは嬉しかったです。そして、演奏の方も完璧、若きバリリの凄さを再認識させてくれるものだったのですから、まさに二重丸の発見でした。

バリリはわずか17才でウィーン・フィルに入団し、その翌年にはコンサートマスターに就任するという早熟の人でした。そして、早熟の天才は年を経るにつれてただの人になってしまうことも多いのですが、彼がその後に残した業績の数々と、100才を超える長寿を保って最後まで保ち続けた音楽への愛情を思えば、まさに「音楽の聖人」とでも言いたくなるような存在でした。(今年、2022年の2月1日に101才の天寿を全うされました)

ここでオケの伴奏をつとめているクレメンスとは面白いエピソードが残っています。
それは、バリリがウィーン・フィルのコンマスに就任した直後に行われたリヒャルト・シュトラウスの「町人貴族」の組曲の録音の時の出来事です。この作品の中の「仕立て屋の踊り」には高い技術を要するヴァイオリンソロがたくさんあるのですが、あろう事かこの箇所でオケが何度もしくじってしまい、何度もやり直す羽目になったのです。
しかし、コンマスのバリリはその大変なソロパートを一度もミスをすることがなかったので、クラウスは「あんたも一度くらい音を外したらどうかね」と軽口を叩いたのですが、それに対してバリリは「「すみません。私はこのようにしか弾けないのです」とこたえたというのです。
そのやり取りを聞いていたヴィオラの首席奏者が「このバリリって奴は尋常じゃない左手のテクニックの持ち主で、何でもすんなり弾けてしまうんですよ」とクラウスに向かって笑いかけたというのです。

このやり取りは、バリリがいかにオケのメンバーから信頼されていたかという証みたいなものなのですが、その時バリリは未だ20才にもなっていなかったのです。
そして、この1944年に録音されたこの協奏曲はバリリが23才の時の録音です。

まさに「完璧」。
「このバリリって奴は尋常じゃない」という言葉をさらに上書きするような演奏です。

そして、もう一つ驚くべきはその録音クオリティの高さです。大戦末期ですから、もしかしたらテープ録音された可能性が高いと思うんですが、若きバリリのソリストとしての演奏がこのようなクオリティで残ったことにただただ感謝あるのみです。