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ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 Op.108(Brahms:Violin Sonata No.3 in D minor, Op.108)
(Vn)ヨーゼフ・シゲティ (P)ミエチスラフ・ホルショフスキ 1956年2月1-3日録音8Joseph Szigeti:(P)Mieczyslaw Horszowski Recorded on February 1-3, 1956)をダウンロード
- Brahms:Violin Sonata No.3 in D minor, Op.108 [1.Allegro]
- Brahms:Violin Sonata No.3 in D minor, Op.108 [2.Adagio]
- Brahms:Violin Sonata No.3 in D minor, Op.108 [3.Un poco presto e con sentimento]
- Brahms:Violin Sonata No.3 in D minor, Op.108 [4.Presto agitato]
ロマン派におけるヴァイオリン・ソナタの傑作
ブラームスは3曲のヴァイオリン・ソナタを残していますが、これを少ないと見るかどうかは難しいところです。確かに一世代前のモーツァルトやベートーベンと比べると3曲というのはあまりにも少ない数です。しかし、ベートーベン以降のロマン派の作曲家のなかで3曲というのは決して少ない数ではありませんし。
さらに、完成度という観点から見ると、これに匹敵する作品はフランクの作品以外には思い当たりませんから、そういう点を考慮すれば3曲というのは実に大きな貢献だという方が正解かもしれません。
ブラームスの第1番のソナタは1878年から79年にかけて、夏の避暑地だったベルチャッハで作曲されました。
45才になってこのジャンルに対する初チャレンジというのはあまりにも遅すぎる感がありますが、それはブラームスの完全主義者としての性格がそうさせたものでした。
実は、この第1番のソナタに至るまで、知られているだけでも4曲のソナタが作曲されたことが知られています。そのうちの一つはシューマンが出版をすすめたにもかかわらず、リストたちの忠告で思いとどまり、結果として失われてしまったイ短調のソナタも含まれています。
他の3曲は弟子の証言から創作されたことが知られているものの、ブラームスによって完全に破棄されてしまって断片すらも残っていません。
ブラームスがファーストシンフォニーの完成にどれほどのプレッシャーを感じていたかは有名なエピソードですが、そのプレッシャーは決して交響曲だけに限った話ではありませんでした。ベートーベンが完成形を提示したジャンルでは、ことごとくプレッシャーを感じていたようで、そのプレッシャーがヴァイオリン・ソナタというジャンルでも大量の作品廃棄という結果をもたらしたようです。
では、ヴァイオリン・ソナタという形式の「何」が、ブラームスに対して多大な困難を与えたのでしょうか。
もちろん、私ごとき愚才がブラームスの心中を推し量ることなどできようはずもないのですが、そこを無理してあれこれ思案をしてみれば、おそらくはヴァイオリンとピアノのバランスをどうとるかという問題だったのではないかと思います。
言うまでもないことですが、ヴァイオリン・ソナタの歴史を振り返ってみれば、ヴァイオリンとピアノという二つの楽器が対等な関係ではなくて、どちらかが主で他が従という形式をとっていました。それが、モーツァルトという天才によって初めて両者が対等な関係でアンサンブルを形成する音楽へと発展していきました。
そして、この方向性のもとで一つの完成形を示したのが言うまでもなくベートーベンでした。
しかし、一連のベートーベンの作品を聴いてみると、事はそれほど単純ではないことに気づかされます。
鍵盤楽器としてのピアノの機能が未だに貧弱だったモーツァルトの時代では、ヴァイオリンとピアノは十分に共存できましたが、ベートーベンの時代になるとピアノは急激に発展していき、オーケストラを向こうに回して一人で十分に対抗できるまでの力を蓄えてしまいます。
それに比べると、ヴァイオリンという楽器は弓の形状は多少は変わったようですが、弓を弦に擦りつけて音を出すという構造は全く変わっていないわけですから大きな音を出すにも限界があります。
ですから、クロイツェル・ソナタなどでピアノが豪快にうなりを上げて弾ききってしまうと、さすがのベートーベンをもってしてもヴァイオリンがかすんでしまう場面があることを否定できません。
そして、ロマン派の時代になるとピアノはその機能を限界まで高めていきます。(ブラームスのピアノコンチェルトの2番を聴くべし!!)
つまり、頭の中だけでこの両者を丁々発止のやりとりをさせて上手くいったと思っても、実際に演奏してみるとピアノがヴァイオリンを圧倒してしまい「何じゃこれ?」という結果になってしまうのです。
つまり、この二つの楽器の力量差を十分に配慮しながら、それでもなおこの二つの楽器を対等な関係でアンサンブルを成立させるにはどうすればいいのか?
これこそが、45才まで書いては廃棄するを繰り返させた「困難」だったのではないでしょうか?
もっとも、これは私の愚見の域を出ませんから、あまりあちこちでいいふらさないように・・・(^^;
しかし、ブラームスのヴァイオリン・ソナタを聴くと、この二つの楽器が実に美しい調和を保っていることに感心させられます。
ベートーベンでは、時にはピアノがヴァイオリンを圧倒してしまっているように聞こえる部分もあるのですが、ブラームスではその様な場面は皆無と言っていいほどに、両者は美しい関係を保っています。そして、その様な絶妙のバランスを保ちながら、聞こえてくる音楽からはしみじみとした深い感情がにじみ出してきます。
これはある意味では一つの奇跡と言っていいほどの作品群です。
ヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調op.108
このソナタは第2番ソナタと2年しか隔たっていないのに作品の雰囲気が大きく異なります。
第2番のソナタではあれほどまでも幸福感につつまれていたのが、この第3番のソナタでは晩年のブラームスに特徴的な渋くて重厚な雰囲気が支配しています。
この変化をもたらしたものは親しい友人たちの「死」でした。トゥーンにおける幸福な生活はわずか一年しか続かす、その後は彼の回りで親しい友が次々と亡くなっていきました。この事はブラームスに大きな衝撃を与えることになり、彼の作品は短調のものが多くなって、避けられぬ人の宿命に対する諦観のようなものがどの作品にも流れるようになっていきます。
この第3番のソナタでも、第2楽章のG線だけで歌われる冒頭のメロディからはその様な傾向をはっきりと聞き取ることができます。
まるでのみで彫り上げるように
おそらく、この演奏を聞いた少なくない人は「なんだかなぁ」と思われたことだと思います。正直言って、私もそのひとりでした。
「でした」と過去形で書いたのは、今は少し違う考えを持つようになったからです。
確かに、この録音を聞く前に、最近しっかりと聞き直してみようと思い始めたウィリアム・カペルのつながりでハイフェッツとの第3番ソナタを聞いていたのですが、失礼ながらそれと比べればアマとプロの違いかと言うほどに差があります。ハイフェッツの輝かしい響きに較べれば、シゲティのヴァイオリンはあまりにも無骨で潤いに欠けます。
しかし、年を重ねてくると、そう言う無骨なブラームスにも心引かれるところがあることに気づきはじめるのです。
ブラームスという人はベートーベンと強く競合するジャンルでは肩に力が入りすぎるのか、あまり上手くいかないことが多い人でした。さすがに、交響曲の分野では逃げ出すわけにも行かないので苦心惨憺の末に4曲の交響曲を書き上げました。
しかし、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲などになると、早々と撤退しています。
そんな中にあって、このヴァイオリン・ソナタというジャンルでは何故かベートーベンへのプレッシャーを受けている感じは希薄で、このジャンルにおけるロマン派を代表する3つのソナタを残しました。おそらく、ベートーベンは10曲のヴァイオリン・ソナタを残したものの、クロイツェルをのぞけばそれほど本気のジャンルではなかったからかもしれません。
しかし、シゲティはそう言うある種の気楽さに甘えることなく、真摯に作品に向き合おうとします。これを世の評論家先生たちは「深い精神性」と言ってシゲティを称揚するのですが、精神性って何よ!と言う人はまるで素人の演奏と切って捨てるのです。
おそらく、両方ともに間違ってはいないと思います。そして、そう言う評価の分かれる演奏家がシゲティなのでしょう。
余りにもベタな喩えで申し訳ないのですが、優れた仏師は木を材料に己の思い描く仏像を彫り上げるのではなく、その木の中に最初から埋め込まれている仏の姿を探り当ててそれを掘り出すと言われます。
演奏家もまた己の楽器を使って己の思い描く作品の姿を描き出そうとするのが普通なのですが、シゲティは楽譜の中に埋め込まれているブラームスの姿を掘り出そうとしているかのように聞こえます・・・なんて言えば誉めすぎでしょうか。
無骨でありながら、大きな表情をつけたり泣き節になったりするという不思議な演奏なのですが、そう言う矛盾こそが古典派とロマン派の狭間で苦しんだブラームスその人のように思えるのです。