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リスト:ハンガリー狂詩曲第9番~第10番(Liszt:Hungarian Rhapsody No.9 in E-flat major (Pesther Carneval)/Hungarian Rhapsody No.10 in E major)
(P)サンソン・フランソワ:1953年10月2日,26日&11月16日,26日&12月13日 1954年1月15日&3月29日~30日録音(Samson Francois:Recorded on October 2,26&November 16,26&December 13, 1953 and January 15&March 29-30, 1954)をダウンロード
- Liszt:Hungarian Rhapsody No.9 in E-flat major (Pesther Carneval)
- Liszt:Hungarian Rhapsody No.10 in E major
ジプシーの音楽をもとに書かれた作品
しかし、この二つの部分は前半がリスト絶頂期に書かれた音楽であるのに対して、後半は晩年の枯れた音楽になっています。要は、後半はあまり面白くないの演奏される機会も少なく、一般的にはハンガリー狂詩曲と言えば15番までと言うのが一般的になっているようです。
超絶技巧練習曲と並んで、リストの代名詞とも言うべき作品なのですが、ハンガリーではいたって評判の悪い音楽だったそうです。
原因は、リストの勘違いにあります。
リストはハンガリー人としての出自に強いアイデンティティを持っていました。ドイツ語を話し、ドイツ的な生活様式を持った地域で生まれ育ち、ハンガリー語を話すこともできなかったにもかかわらず、「私はハンガリー人」という意識を持ち続けた人でした。
そんなリストが、自らのアイデンティティを確認する意味もあって、ハンガリーの伝統的な音楽を研究し、その研究にもとづいて書き上げたのが「ハンガリー狂詩曲」でした。
はい、何の問題もないように見えます。ハンガリー人としての誇りを失わず、その誇りゆえに民俗の音楽を芸術的に昇華したのですから・・・。
ところが、リストがハンガリーの伝統的な音楽だと信じたものが、後の研究によってジプシーの音楽であることが判明したのです。そして、今も昔もジプシーはヨーロッパにおいては蔑視される民族であり、その様な「賤しい民族」の音楽を偉大な祖国の音楽を取り違えたリストは怪しからん!と言うことになってしまったのです。
リストがハンガリー的な音楽と信じたのは「ヴェルブンコシュ音楽」と呼ばれるものでした。
この音楽はゆったりとした音楽で始まり、一般的には過剰装飾とも思えるヴァイオリンのソロが活躍します。やがて、その雰囲気は一変して、少しずつテンポを上げながら、さらにいろんな楽器が加わって狂瀾怒涛のうちに終わる・・・というスタイルが基本です。
ですから、リストのハンガリー狂詩曲も、まずはゆったりとしたテンポで始まり、やがてテンポを少しずつ上げていきながら、最後は超絶技巧爆発の狂乱の中で終わるというとっても魅力的なスタイルで書かれています。
今となっては、このスタイルの音楽はハンガリーの民族的な音楽をベースにしながらも、そこへイスラムやバルカン、スラブ民族の音楽、さらにはウィーン、イタリアの近代音楽の要素などなども放り込んで作り上げられたジプシーの音楽であったことが知られています。
しかし、リストが活躍した19世紀中葉において、このスタイルの音楽は国中の人々に受け入れられていて、これこそがハンガリーの音楽だと誰もが信じていたのです。
「ヴェルブンコシュ音楽=ハンガリーの民族的な音楽」でないことが判明するのは、20世紀に入ってバルトークやコダーイによる精緻な研究を待たなければなりません。
そして、その様な精緻な研究によってハンガリーの民族的音楽の姿を明らかにした彼らが決してリストを批判しなかったのに対して、逆に民族的音楽の真の姿を明らかにしたバルトークなどを迫害したハンガリーのナチスがリストのことを口を極めて罵ったことは興味深い事実です。
もちろん、今となっては、そんなことでこの作品の価値を貶めるような物言いは通用しないのですが、それでも聞くところによると、「民族意識の強い」一部のハンガリー人にとっては複雑な感情を引き起こす作品だそうです。
中東欧圏と言うところは、私たち日本人には到底理解できないような複雑な歴史的背景を持っていると言うことなのでしょう。
<前半部分。ただし、これだけで「ハンガリー狂詩曲」とするピアニストも多い>
- 第1番 嬰ハ短調
- 第2番 嬰ハ短調 (もっとも有名)
- 第3番 変ロ長調
- 第4番 変ホ長調
- 第5番 ホ短調「悲しい英雄物語」
- 第6番 変ニ長調
- 第7番 ニ短調
- 第8番 嬰ヘ短調
- 第9番 変ホ長調「ペシュトの謝肉祭」
- 第10番 ホ長調「前奏曲」
- 第11番 イ短調
- 第12番 嬰ハ短調
- 第13番 イ短調
- 第14番 ヘ短調
- 第15番 イ短調「ラコーツィ行進曲」
<後半の追加分、あまり有名ではない>
- 第16番 イ短調
- 第17番 ニ短調
- 第18番 嬰ヘ短調
- 第19番 ニ短調
シフラの演奏と双璧を為すハンガリー狂詩曲
こういう作品になるとフランソワはまさに水を得た魚ですね。まさにフランソワならではの感性が爆発し、その爆発に軽々と指が追随して鍵盤の上を疾走しています。
まさに、彼を遮るものは何もなく、無人の荒野をいくがごとしです。
おそらく、こういう主情性にあふれた演奏は彼の次の時代のピアニストたちは怖くてやれないでしょう。
また、彼と同時代であっても、いわゆるドイツ・オーストリア系の正統派のピアニストたちにとっても到底不可能な演奏だったことでしょう。何しろ、こういう作品を「構築」されたのでは音楽の面白さの大半を失ってしまいます。
それ故に彼らはリストのこのような作品を「底の浅い作品」として敬遠、かろうじて最晩年の「詩的で宗教的な調べ」のような宗教的・瞑想的な作品あたりしか取り上げなかったのでしょう。
もちろん、それはそれで一つの見識ではあったのでしょうが、クラシック音楽といえどもエンターテイメントの一翼を担っている事は否定できません。そうであれば、リストが現在の「リサイタル」という演奏スタイルの嚆矢であったことの価値を正当に評価すれば、こういう名人芸の上に成り立つ作品もその事実に相応しい評価が為されるべきでしょう。
おそらく、このフランソワの演奏は、「酒場のピアニスト」から身を起こしたシフラの演奏と双璧を為すハンガリー狂詩曲と言い切ってもいいでしょう。
劇的な感情の爆発、もの悲しいロマのメロディなどが何の遠慮もなく繰り広げていくところなどは「酒場のピアニスト」だったシフラにも負けない奔放さですが、一つ一つの音のコントロールは完璧で、その点ではフランソワはラテン的な明晰さを忘れることはありません。
もちろん、その事を持ってフランソワとシフラを較べるような無粋な真似はしたくないのですが、こういう演奏を聞いていると、きっとリストもこんな感じで演奏していたんだろうなという妄想がわいてきます。
また、録音の面で難のあるナンバーがあるシフラの録音に較べて、フランソワの方は全ての録音の粒が揃っています。モノラル録音であってもこれだけのクオリティがあればなんの不満もありません。
やはり、やる気になったっ時のフランソワは凄いです。