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モーツァルト:セレナーデ第13番ト長調, K.575 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(Mozart:Serenade in G Major, K.525 "Eine kleine Nachtmusik")
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮:ウィーン・フィルハーモニ管弦楽団 1940年5月12日録音録音(Hans Knappertsbusch:Vienna Philharmonic Orchestrar Recorded on May 12, 1940)をダウンロード
- Mozart:Serenade in G Major, K.525 "Eine kleine Nachtmusik" [1.Allegro]
- Mozart:Serenade in G Major, K.525 "Eine kleine Nachtmusik" [4.Rondo (Allegro)]
- Mozart:Serenade in G Major, K.525 "Eine kleine Nachtmusik" [2.Romance (Andante)]
- Mozart:Serenade in G Major, K.525 "Eine kleine Nachtmusik" [3.Menuetto (Allegretto)]
この作品は驚くほど簡潔でありながら、一つの完結した世界を連想させるものがあります。
「音符一つ変えただけで音楽は損なわれる」とサリエリが感嘆したモーツァルトの天才をこれほど分かりやすく提示してくれる作品は他には思い当たりません。
おそらくはモーツァルトの全作品の中では最も有名な音楽の一つであり、そして、愛らしく可愛いモーツァルトを連想させるのに最も適した作品です。
ところが、それほどまでの有名作品でありながら、作曲に至る動機を知ることができないという不思議さも持っています。
モーツァルトはプロの作曲家ですから、創作には何らかのきっかけが存在します。
それが誰かからの注文であり、お金になる仕事ならモーツァルトにとっては一番素晴らしい動機だったでしょう。あるいは、予約演奏会に向けての作品づくりであったり、出来のよくない弟子たちのピアノレッスンのための音楽作りであったりしました。
まあ早い話が、お金にならないような音楽づくりはしなかったのです。
にもかかわらず、有名なこの作品の創作の動機が今もって判然としないのです。誰かから注文があった気配はありませんし、演奏会などの目的も考えられません。何よりも、この作品が演奏されたのかどうかもはっきりとは分からないのです。
そして、もう一つの大きな謎は、そもそもこの作品はどのようなスタイルで演奏されることを想定していたかがよく分からないのです。具体的に言えば、1声部1奏者による5人の弦の独奏者で演奏されるべきなのか、それとも弦楽合奏で演奏されるべきなのかと言うことです。
今日では、この作品は弦楽合奏で演奏されるのが一般的なのですが、それは、そのスタイルを採用したときチェロとコントラバスに割り振られたバス声部が素晴らしく美しく響くからです。しかし、昨今流行の「歴史的根拠」に照らし合わせれば、どちらかといえば1声部1奏者の方がしっくりくるのです。
さらに、ついでながら付け加えれば、モーツァルトの「全自作目録」には「アイネ・クライネ・ナハトムジーク。アレグロ、メヌエットとトリオ、ロマンツェ、メヌエットとトリオ、フィナーレから構成される」と記されていて、この作品の原型はもう一つのメヌエット楽章を含む5楽章構成だったのです。そして、その失われたメヌエット楽章は他の作品に転用された形跡も見いだせないので、それは完全に失われてしまっているのです。
ただし、その失われた事による4楽章構成が、この簡潔なセレナードをまるで小ぶりの交響曲であるかのような雰囲気にかえてしまっているのです。
ですから、それは「失われた」のではなくて、モーツァルト自身が後に意図的に取り除いた可能性も指摘されるのです。
そんなわけで、自分のために音楽を作るということはちょっと考えづらいモーツァルトなのですが、もしかしたら、この作品だけは自分自身のために作曲したのかもしれないのです。
もしそうだとすると、これは実に貴重な作品だといえます。そして、そう思わせるだけの素晴らしさを持った作品でもあります。
ただし、それはどう考えても「あり得ない」妄想なので、おそらくは今となっては忘れられてしまった。そして記されなかった何らかの理由があったのでしょう。つまりは、それほどまでにモーツァルトは「プロの作曲家」だったのです。
到底プラトニックな関係とは言えない
先に、クナパーツブッシュのト短調(K.550)とハ長調(K.550)のシンフォニーを聴いて、ベームの「彼はモーツァルトとはプラトニックな関係しか築けなかった」と言う言葉に大いに納得したのでした。
しかし、このクナパーツブッシュという男は、その様な一つの言葉で括れるほど柔な男ではなかったようです、
それが、この1040年に放送用録音として演奏された「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」です。
当日のプログラムは以下のようなものです。
- モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」
- プフィッツナー:管弦楽のためのスケルツォ
- モーツァルト:セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
- ワーグナー:「神々の黄昏」より ジークフリートのラインへの旅
- ワーグナー:「タンホイザー」序曲
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の録音というのはどれほどあるのか分からないほど世に溢れていると思うのですが、クナッパーツブッシュが残したのはこのライブ録音だけだと思われます。
そして、このライブの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は到底プラトニックな関係とは言えない演奏です。
第1楽章などはきわめて真っ当に、そして40年という時代に相応しい分厚い響きで堂々と演奏されます。
ピリオド楽器による演奏に慣れた耳には違和感はあるかも知れませんが、時代を考えればきわめて真っ当な演奏です。
続く「Romance」もやや遅めのテンポ設定ながらも十分に歌いこんだ美しい音楽が展開します。そしてその美しさにはさすがはウィーンフィルと思わせられます。
そして、「Romance」のテンポ設定を考えれば次の「Menuetto」のやや重めの舞曲になっていることにも整合性は取れているように思えます。
しかしながら、そう言う「言い訳」の全てを最後の「Rondo」楽章は全てひっくり返しています。これは到底プラトニックな感系などではなく、かなりあやしい関係へと踏み込んでいます。。
おそらく、このようなあやしい関係を許容し楽しめる人にとってはクナッパーツブッシュは素晴らしい指揮者となるでしょう。しかし、ふざけるな!!と思う真っ当な人にとってはあまり近づかない方がいいのかも知れません。
それと同日にジュピターも録音していて、聞くところによると録音も残っているようです。
残念ながら聞いたことはないのですが、ネット上の意見を探ってみると実にモッサリとした演奏でおよそ「ジュピター」らしからぬ演奏らしいです。もしもそれが妥当な評価であれば、41年のジュピターはまるで別人かと思うような演奏だったと言うことになるようです、