FLAC モノラルファイルデータベース>>>Top
シューベルト:交響曲第8(9)番 ハ長調 「ザ・グレート」 D.944(Schubert:Symphony No.9 in C major, D.944 "The Great")
ルドルフ・ケンペ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団 1950年12月1日録音(Rudolf Kempe:Staatskapelle Dresden Recorded on December 1, 1950)をダウンロード
- Schubert:Symphony No.9 in C major, D.944 "The Great" [1.Andante - Allegro, ma non troppo - Piu moto]
- Schubert:Symphony No.9 in C major, D.944 "The Great" [2.Andante con moto]
- Schubert:Symphony No.9 in C major, D.944 "The Great" [3.Scherzo. Allegro vivace - Trio]
- Schubert:Symphony No.9 in C major, D.944 "The Great" [4.Allegro vivace]
ベートーベン的な「交響曲への道」にチャレンジしたファースト・シンフォニー
天才というものは、普通の人々から抜きんでているから天才なのであって、それ故に「理解されない」という宿命がつきまといます。それがわずか30年足らずの人生しか許されなかったとなれば、時代がその天才に追いつく前に一生を終えてしまいます。
シューベルトはわずか31年の人生にも関わらず多くの作品を残してくれましたが、それらの大部分は親しい友人達の間で演奏されるにとどまりました。
彼の作品の主要な部分が声楽曲や室内楽曲で占められているのはそのためです。
言ってみれば、プロの音楽家と言うよりはアマチュアのような存在で一生を終えた人です。もちろん彼はアマチュア的存在で良しとしていたわけではなく、常にプロの作曲家として自立することを目指していました。
しかし世間に認められるには彼はあまりにも前を走りすぎていました。
もっとも同時代を生きたベートーベンは「シューベルトの裡には神聖な炎がある」と言ったそうですが、その認識が一般のものになるにはまだまだ時間が必要でした。
そんなシューベルトにウィーンの楽友協会が新作の演奏を行う用意があることをほのめかします。
それは正式な依頼ではなかったようですが、シューベルトにとってはプロの音楽家としてのスタートをきる第1歩と感じたようです。彼は持てる力の全てをそそぎ込んで一曲のハ長調交響曲を楽友協会に提出しました。
しかし、楽友協会はその規模の大きさに嫌気がさしたのか練習にかけることもなくこの作品を黙殺してしまいます。
今のようにマーラーやブルックナーの交響曲が日常茶飯事のように演奏される時代から見れば、彼のハ長調交響曲はそんなに規模の大きな作品とは感じませんが、19世紀の初頭にあってはそれは標準サイズからはかなりはみ出た存在だったようです。
やむなくシューベルトは16年前の作品でまだ一度も演奏されていないもう一つのハ長調交響曲(第6番)を提出します。
こちらは当時のスタンダードな規模だったために楽友協会もこれを受け入れて演奏会で演奏されました。しかし、その時にはすでにシューベルがこの世を去ってからすでに一ヶ月の時がたってのことでした。
この大ハ長調の交響曲はシューベルトにとっては輝かしいデビュー作品になるはずであり、その意味では彼にとっては第1番の交響曲になる予定でした。
もちろんそれ以前にも多くの交響曲を作曲していますが、シューベルト自身はそれらを習作の域を出ないものと考えていたようです。
その自信作が完全に黙殺されて幾ばくもなくこの世を去ったシューベルトこそは「理解されなかった天才の悲劇」の典型的存在だと言えます。
しかし、天才と独りよがりの違いは、その様にしてこの世を去ったとしても必ず時間というフィルターが彼の作品をすくい取っていくところにあります。この交響曲もシューマンによって再発見され、メンデルスゾーンの手によって1839年3月21日に初演が行われ成功をおさめます。
それにしても時代を先駆けた作品が一般の人々に受け入れられるためには、シューベルト→シューマン→メンデルスゾーンというリレーが必要だったわけです。
これほど豪華なリレーでこの世に出た作品は他にはないでしょうから、それをもって不当な扱いへの報いとしたのかもしれません。
- 第1楽章:Andante - Allegro, ma non troppo - Piu moto
冒頭、2本のホルンによって主題が奏されるのですが、これが8小節を「3+3+2」としたもので、最後の2小節がエコーのように響くという不思議な魅力をもっています。
また、この主題の中の3度上行のモティーフが至るところで使われることによって作品全体をまとめる働きもしています。 - 第2楽章:Andante con moto
チェロやコントラバスというベースラインが絶妙に揺れ動く中でオーボエのソロが見事な歌を歌います。ベートーベン的な世界を求めながらも、そこにシューベルトならではの「歌」の世界が抑えきれずにあふれ出たという風情です。
そして、シューベルトには申し訳ない話かも知れませんが、それ故に聞き手にとっては最も美しく響く音楽でもあります。 - 第3楽章:Scherzo. Allegro vivace - Trio
同じスケルツォでも、ベートーベンのような諧謔さではなくて親しみやすい舞曲的性格が強い音楽になっています。 - 第4楽章:Allegro vivace
「天国的な長さ」とシューマンによって評された特徴が最もよくあらわれているのがこの楽章です。
第1主題に含まれる2つの音型が楽章の全体を通して休みなく反復されるので、それがその様な感覚をもたらす要因となっています。
しかし、それこそがベートーベン的な「交響曲への道」を求めていたシューベルトの挑戦の表れだったと言えます。
些細なことにはこだわらない「劇場の人」としての側面が前面に出た演奏
ルドルフ・ケンペと言う指揮者の立ち位置というのはかなり微妙かもしれません。
今となっては堅実で手堅い演奏を行った中堅の指揮者と言うことになるのでしょうが、それでもその記憶はかなり薄れています。しかし、薄れながらもその記憶が消えてしまわないのは、70年代に「ドイツ本流の偉大なマエストロ」として大いに持て囃された過去を持っているからです。
ただし、そうやって持て囃されたのは日本だけだったと言うあたりがいかにも怪しい存在なのです。(^^;
この極東の島国では、ある演奏家に突如注目が集まるきっかけというのは「来日公演」というのが通り相場です。どれほどレコードで親しんでいようと実演に勝るものはなく、その実演がレコードで聞いていたときとは別次元の凄さだった日には一気に評価が上がるというものなのです。
その典型例がジョージ・セルでしょう。
私の中の典型はクラウス・テンシュテットでした。
もちろんその逆もあるのであって、来日公演のあまりの酷さゆえに一気に評価を下げるというパターンもあって、その典型はエルネスト・アンセルメでしょうか。
私の中での典型はリッカルド・シャイーです。
ところが、このルドルフ・ケンペの場合は病弱だったこともあったのか、結局は一度も来日していないのです。
にも関わらず不思議な形で評価が上がっていき、さらには、その上がっていく最中の60代半ばにしてこの世を去ってしまい、それが切っ掛けとなってさらに評価が加熱していったのです。
こういう日本だけの不思議な現象が起こると、「だから日本人は駄目なんだよ」という論調になって終わることが多いのですが、私は日本のクラシック音楽ファンの目利きはそれほど馬鹿にしたものではないと思っています。
レコード会社の仕掛けがあったとしても、その音楽を熱心に受け容れたという背景には、彼の音楽のどこかに日本人の琴線に触れる「何か」があったと見た方がいいのです。
そして、気づくのが、若い頃のケンペが大きな歌劇場でのポジションを歴任していたという経歴です。
1950年にはドレスデン国立歌劇場の音楽監督、1952年からはショルティの後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督をつとめています。そして、1954年からはメトロポリタン歌劇場を主要な活動場所としているのです。
常々思うのは、このように劇場での経験が長い人というのは語り口が上手いと言うことです。そして、音楽を聞いての「楽しさ」というものを大切にすると言うことです。
それとは逆に、いわゆるコンサート指揮者というのは「つまらなく演奏」した方が偉く見えるという雰囲気があります。言い過ぎかな?(^^;
しかし、そう言う「つまらなくて」「難しげ」な音楽をウンウン言いながら聞いている方が偉く思えてくると言う「自虐」的な人が多いことも事実なのです。
しかし、演奏会であれ、レコードであれ、どうせお金を払って音楽を聞くのならば「楽しい」方がいいに決まっているのです。
そう言う意味で言えば、このケンペと言う指揮者はそう言う楽しく音楽を聞かせる術には長けていると言えそうなのです。そして、日本人というのは、聞く人の情にストレートに語りかけてくる音楽には機敏に反応するところがあるように思われるのです。
例えば、ここで紹介しているシューベルトのハ長調シンフォニーは、音楽監督に就任したばかりのレスデン国立歌劇場管弦楽団との録音と言うことですから、そう言う劇場的な側面が色濃くでているように思えます。
その後ケンペは病弱だったこともあって劇場での激務には耐えられないと言うことで、活動の重点をオペラ座からコンサート会場に変えていきます。そして、そのことによって、細部の明晰さとは響きの透明感にも留意を払うように変化していくのです。
とはいえ、コンサート指揮者となってもケンペは「些細」な不都合を細かくチェックしく、その結果として音楽全体の流れを損なうよりは、劇場的に音楽全体の勢いとそれによってもたらされる面白さを優先していたことも事実です。そして、その二つをどの様にアウフヘーベンしていくかが彼の中における最大の課題となったことでしょう。
そして、そう言う試行錯誤の中で両者のバランスが非常によくなってきたように思えるのがドレスデンのオケと録音したリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲だったと言えそうです。
そして、そう言う変化を機敏に感じとったがゆえに日本のリスナーは彼への評価を高めたのかもしれません。
しかしながら、その様にして、まさにもう一つ高い次元へと移り変わっていく最中にケンペはこの世を去ってしまったわけです。
残念と言えば残念な話ではあったのですが、それでもこういう些細なことにはあまりこだわっていなかった「劇場の人」としての側面が前面に出た演奏も悪いものではありません。
何でもかんでも年のせいにしてはいけないのですが、それでも年を重ねると、こういうザックリとした音楽が好ましく思えてしまうのです。