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ショパン:舟歌 Op.6(Chopin:Barcarolle, Op.60)
アルフレッド・コルトー:1933年7月5日録音(Alfred Cortot:Recorded on July 5, 1933)をダウンロード
絶対的な孤独を見つめる一人の男の寂寞たる姿
メンデルスゾーンとショパンはほとんど同じ時代に生まれ、同じ時代を過ごし、そして同じ時代に若くして没したの音楽家です。
しかし、その人生は極端に違います。
メンデルスゾーンは資産家の息子として生まれ、物質的にはこの上もなく恵まれた一生をすごしました。彼の音楽にはそのような幸せな雰囲気をいたるところで聞き取ることができます。もちろん、その内面においては、様々な苦悩はあったでしょうが、この時代の音楽家としては、例外的と言っていいほどの恵まれた一生を送りました。
それに反して、ショパンの一生は波瀾と激動に満ちたものでした。エチュード「革命」に聞こえる祖国喪失の悲しみ、そして、ジョルジュ・サンドとの「愛と別れ」、そして結核にむしばまれての「のたれ死」同然の最期。
まさに、悲劇の人生を送ることの多かったロマン派の音楽家の中でも、とりわけ痛苦に満ちた一生を送った人、それがショパンでした。
そして、この二人の舟歌を聴くと、そんな二人の男の人生が透けて見えてくるような気がします。
それにしても、ショパンの舟歌のなんと素晴らしいこと!舟歌というのは聴いてもらえればすぐに分かるように、常に揺れ続けるような伴奏音型を持っているのだが、その上で歌い継がれる「歌」の何と美しいことか。
舟歌とはもとはヴェネチアのゴンドラの船頭の歌であり、基本は8分の6拍子です。しかし、ショパンはそれを8分の12拍子に曲の旋律線をより長く流麗なものに変更させています。
この舟歌を作曲したとき、ショパンとサンドの関係は悪化の一途であり、さらに胸の病はますます彼を苦しめていました。そこには、イタリアの郷土色は綺麗に払拭され、骨の髄にまで染み込むような孤独が歌い継がれていきます。
私ははショパンのピアノ曲で一つだけ選べと言われれば、躊躇なくこの一曲を選びます。
そこにあるのは、絶対的な孤独を見つめる一人の男の寂寞たる姿です。
しかし、誤解のないように一言。
だからといって、メンデルスゾーンがショパンに劣ると言っているのではありません。
歴史に埋もれていたバッハを再発見し、「マタイ受難曲」の復活をはたしたのは彼です。
また、クレンペラー指揮、フィルハーモニア管による交響曲3番「スコットランド」の演奏を聴いてみてください。そのすぐ横に、あのブルックナーの壮大な音楽が佇んでいることがはっきりと分かるはずです。
メンデルスゾーンの音楽には、そのような後の時代へとつながっていく系譜をしっかり感じ取ることができます。
それに反して、ショパンは先駆者も持たず、後継者も持たなかった孤立した存在です。
しかし、天才というものが、軽々しく模倣を許さないが故に後継者を持たないものであるなら、それも仕方のないことです。
その意味で「天才」と呼べ事のできるのは、モーツァルトをのぞけば、あとはショパンただ一人。
これは確かなことです。
テンポ・ルパートの何たるかを知っている演奏
ギオマール・ノヴァエスの演奏について考え抜いた演奏ということを述べた上で、以下のようなことを書きました。
「考えるな、感じろ!」とはブルー・スリーの言葉ですが、クラシック音楽の世界では真逆で「感じるな、考えろ!」が基本とならなければいけません。感じるがままに演奏してものになるほどこの世界は単純ではありません。
基本的にそれほど間違った捉え方ではないと思っています。
しかし、ふとコルトーの演奏が脳裏をよぎりました。
あの自由自在ともいうべき歌心に満ちたショパン演奏が脳裏をよぎるとき、あれってもしかしたらコルトーが楽譜を前にして感じたがままに演奏していたのではないだろうかという思いが否定しかねたのです。
確かにクラシック音楽の世界で感じるがままに演奏して独りよがりではなくて、その感性だけで聞き手を納得させるなどということは人間業をこえています。しかし、時にはそう言うとんでもない存在があったとしても不思議ではなく、そう言う化け物みたいな存在がコルトーだったのではないだろうかと思ってしまうのです。
しかし、その時、これまたふとと、内田光子の言葉がよみがえりました。
彼女はコルトーの演奏に対して「テンポ・ルパートの何たるかを彼ほどに知っている人はいない」と述べていました。
そして、彼の演奏を聞くたびに「この助平親父」と思うのですが、それでもその魅力には抗しきれないみたいなことを話していた記憶があります。
そうなんだ、コルトーは「テンポ・ルパート」の何たるかを知り抜いたピアニストだったのです。そして、その知り尽くした「テンポ・ルパート」を駆使してショパンの楽譜から溢れるほどの歌心を引き出すことが出来たのです。もしかしたら、彼は「考える」ということを意識しないレベルにまで、まさに本能レベルに近い領域で考え抜いていたのかもしれません。
そして、私たちにとってなによりも幸運だったことは、そう言う歌心に溢れたショパンの演奏を30年代の初め頃にまとまってコルトーが録音していてくれたことです。それは、疑いもなくコルトーの絶頂期におけるショパン演奏でした。
そして、さらに幸運だったのは、その一連の録音がSP番録音の真髄を伝えるほどの音質で、脂ののりきった時代のコルトーの演奏が大量に残されたことでした。
今もってその価値を失わない演奏と録音であり、その価値はさらに長きにわたって失われることはないでしょう。
本当な「永遠に失われることはない」と書きたいのですが、あまり軽々に「永遠」などと言う言葉は使わない方がいいでしょうから、控えめに「さらに長きにわたって失われることはない」にとどめました。
SP盤の時代でも驚くほど音質の素晴らしいものに時々出会うのですが、この30年代の前半に行われたコルトーの録音はその中でも極上の部類に分類されます。
おそらく、ブラインドで聞かされればモノラル録音時代のLP盤だと思うはずです。
そう言えば、金属原盤が戦災などをまぬがれて残されている場合があって、そう言う原盤から復刻したものはかなり音質がいいという話を聞いたことがあります。このコルトーの復刻盤もそう言う金属原盤からの復刻かと思ったのですが、あれこれ聞いていると少し違うのかなと思う部分があります。
それは、全体としてはほとんどノイズがのっていないのですが、人気があってよく聞かれる部分が来るとパチパチノイズがのるのです。
例えば、ショパンのピアノソナタだと葬送行進曲の部分にだけノイズがのります。ピアノ協奏曲の第2番だと第2楽章「Larghetto」にだけ、同じようにノイズがのるのです。さらには、「即興曲」の中でも一番の人気曲である「幻想即興曲」だけがパチパチノイズの量が多いのです。
おそらくは、そう言う人気曲ともなれば「未通針」に近いSP盤というのはあり得ないのでしょう。
音楽というのはやはり歌わなければ魅力は半減します。
いや、「歌ってこそなんぼ」の世界なのです。
しかし、どのように歌わせるかというのは、その人の中にどれだけの音楽力(おかしな言葉ですが)、つまりは「考え抜く力」があるかにかかってきます。残念ながら、未だもってこれだけ見事にショパンを歌ったピアニストは、極めて控えめに言ってもこの30年代のコルトーを含めて数えるほどしかいないでしょう。
最近は一つのミスタッチも無しにあっさりと(無表情に)仕上げるのが美徳のように思っているピアニストが多いようです。その背景には本当に考えることなく、ひたすら楽譜に対して正確に演奏する事しか考えていない人が少なくないからでしょう。または、考えがあまりにも足りなさすぎるのでしょう。
こういうコルトーの最盛期の演奏を聞いていると、嫌みな言い方になりますが、「あなたショパンとはそんなにも素っ気ない音楽を書いた人だと信じているのですか?」聞いてみたくなったりします。