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ショーソン:協奏曲 Op.21(Chausson:Concert for Violin, Piano and String Quartet, Op.21)
(P)ロベール・カサドシュ:(Vn)ジノ・フランチェスカッテ ギレ四重奏団 1954年12月1日録音(Robert Casadesus:(Vn)Zino Francescatti Guilet String Quartet Recorded on December 1, 1954)をダウンロード
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ショーソンにこんな作品がまだあったとは
ショーソンといえば「詩曲」くらいしか思い浮かばないのが一般的で、あとは交響曲を書いていたことを思い出すことができれば大したものです。
ですから、私もこの協奏曲と出会って、こんな作品があったのかと驚いている次第です。クラシック音楽などというものを40年以上も聞き続けてきながら、まだまだその世界の奥深さには改めて驚かされます。
ショーソンはパリの裕福な家庭に生まれ、当初は両親の希望をかなえるため法律の道を志しています。その傍ら趣味として作曲を行っていたのですが、本格的に音楽に取り組んだのは25歳でパリ音楽院に入学してからでした。そして、不慮の事故でこの世を去ったのが44歳でしたから、音楽家として活動したのは非常に短い期間でした。そのことをお思えば、代表作として思い浮かぶ作品が少ないのは仕方のないことでした。いや、そんな短い活動期間にもかかわらず、たとえ「詩曲」一曲だけを残しただけでも素晴らしいことだといってもいいでしょう。
この協奏曲は、その楽器編成だけを見ればピアノを含む六重奏曲と見えます。しかし、実際に音楽を耳にすればメインはピアノとヴァイオリンの二重奏曲で、そのバックとして弦楽四重奏が伴奏を務めているように聞こえます。しかし、もう少し注意して聞いていると、ことはそれほど単純ではなく、六重奏曲的に聞こえる場面もあれば、ピアノとヴァイオリンによる二重奏曲のように聞こえる場面もあります。
ですから単純に「ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲」というネーミングで、いわゆる室内協奏曲に分類することにはためらいがありますし、室内楽としての六重奏曲とするのは明らかに間違っています。
そんなわけで、形式的には実に一筋縄ではいかないので、ただ単に「協奏曲」と表記されることもあるのですが、何とも言えず悩ましい音楽です。
ショーソン自身も「Concert」としか記さなかったのは、結局は最大公約数としてそのように表記するしかなかったのでしょう。
そして、初演時においてはこの作品は好意的に受け止められ「今後は私ももっと自信を持って仕事ができそうに思われる」と友人に書き送っています。その自信の表れでしょうか、この作品の成功の後に、己の代表作である「詩曲」をこれと同じ編成で編曲しているほどなのです。
作品全体は4楽章構成で、第1楽章はソナタ形式、第2楽章はシシリエンヌでフォーレをを思わせる音楽です。そして第3楽章は荘重な緩徐楽章で、最後は快活なソナタ形式で大きな高揚の中で締めくくられています。
室内楽での不可欠の相棒
フランチェスカッティは協奏曲おいては伴奏指揮者を選ぶということを書きました。
それでは、室内楽ではどうだったのかと調べてみれば、それはもう「選ぶ」どころの話ではなく、まさにロベルト・カサドシュ一択といっていいほどの偏りを見せています。
確かに、彼の優れたテクニックに呼応でき、さらにはその妖艶な音色で歌い上げられる深い感情のこもった音楽を真に理解でき、さらにその音楽の寄り添える相手といえば他にだれが思い浮かぶでしょう。カサドシュほぼ一択というこの事実を前にして、考えてみればなるほどそうなるしかないのかと一人納得している自分に気づきました。
室内楽なのですから、共演相手からご本尊として奉られても困ります。
協奏曲ならば思う存分自分の色を前面に押し出してフランチェスカッティの音楽に徹すれば、それはそれなりに面白い演奏にもなるでしょう。しかし、室内楽ではそういうわけにはいきません。かといって、すぐれたテクニックを持っていても「我」の強い相手だと、それはそれでちぐはぐな音楽になってしまうことは目に見えています。
確かにフランチェスカッティのヴァイオリンは、豊かで艶やかな音色で聞き手の耳を引き付けますが、それ故に深みが足りないとか、精神性に欠けるなどという悪口もついて回りました。
それに対して、カサドシュはどちらかといえば古典的な均衡を重んじるように思われるピアニストです。しかし、カサドシュはフランチェスカッティの美しさとあふれるような情熱を一切妨げることはなく、それどころかそれをピアノの側から寄り添いながらもより高いレベルへと引き上げる腕を持っていたのです。
ただし、「カサドシュってそんなにすごいピアニストなんですか」という声も聞こえてきそうです。
その原因は、セル&クリーブランド管と録音した一連のモーツァルトの協奏曲録音にあります。あれは演奏の主導権は完ぺきにセルの手中にあり、その強いコントロール下で絶妙なバランス感覚を発揮してピアノを弾ききったのがカサドシュでした。そして、その時のクリーブランド管が白磁を思わせるような透明感に満ちた響きの世界を展開しているので、口さがない連中に「カサドシュのピアノが邪魔だ」などと言ったからです。
「カサドシュのピアノはいただけない。ブラームスのピアノ協奏曲と違って、ピアノがダメだと台無しになってしまう曲ばかりなので、いずれの曲もセルのオケだけ楽しんでいる。」なんて書いている人もいるほどです。
しかし思い出してください、セルほどソリストの選定にうるさい指揮者はいなかったという事実を。そのセルがモーツァルトの録音において選んだソリストがカサドシュだったという事実を。
確かに、モーツァルトに関しては最初から最後までセルの美学の中で事は進んでいくように見えます。ほとんどのピアニストは不自由を強いられる上に注文だけは人一倍多いというセルのような指揮者との共演はできれば避けたいことでしょう。
しかし、カサドシュは己の美学に徹底的にこだわり抜く完全主義者(悪く言えば偏執狂^^;)の美学を壊すことなく20年近くもつきあい続けたのです。
セルのような完璧主義に取りつかれた偏執狂に淡々と20年近くもつきあい続けられるピアニストはカサドシュ以外には思い当たりません。
そう思えば、セルとはベクトルが異なるとはいえ、フランチェスカッテもまた己の美学を徹底的に貫き通した人でした。そんなフランチェスカッティにとってカサドシュ以上の相棒がこの世に存在するとは思えません。
本当にカサドシュこそはどこまでも懐の大きい、いわゆる中国語で言うところの「大人」だったのです。
そして、私たちはそういう「大人」のおかげで、心いくまでフランチェスカッティの魅力あれるヴァイオリンの世界に浸る幸せを得ることができたのです。
まさに、フランチェスカッティにとってカサドシュこそが、室内楽の分野における不可欠の相棒だったのです。