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ドビュッシー:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調(Debussy:Sonate pour violon et piano in G minor)
(P)ロベール・カサドシュ:(Vn)ジノ・フランチェスカッテ 1946年4月26日録音(Robert Casadesus:(Vn)Zino Francescatti Recorded on April 26, 1946)をダウンロード
- Debussy:Sonate pour violon et piano in G minor [1.Allegro vivo]
- Debussy:Sonate pour violon et piano in G minor [2.Intermede: fantasque et leger]
- Debussy:Sonate pour violon et piano in G minor [3.III. Finale: tres anime]
6つのソナタ
ドビュッシーはその晩年、「様々な楽器のための6つのソナタ (six sonates pour divers instruments)」を作曲する計画を立てます。そして、その第1作として発表したチェロ・ソナタには以下のようなタイトルが記されていました。
「様々な楽器のための6つのソナタ 、フランスの音楽家クロード・ドビュッシー作曲、第1番、チェロとピアノのために」
しかし結果として彼は6曲のソナタを全て完成させることは出来ず、第3曲となる「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」が最後の作品となってしまいます。
それにしても、人間的にはあまりにも問題の多い人物であったことは否定できないのですが、音楽家としては最後の最後まで意欲的であったことは認めなければいけません。何故ならば、第2作目は「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」という実に変わった楽器の組み合わせであり、結果として未完として終わった残りの3作も「オーボエ、ホルンとクラヴサンのためのソナタ」「トランペット、クラリネット、バスーンとピアノのためのソナタ」「コントラバスと各種楽器のためのコンセール形式のソナタ」という、実に意欲的な組み合わせを構想していたことが残された記録から分かるからです。
それならば、第1作と第3作の「チェロとピアノのためのソナタ」と「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」は通常の形式なのかと言えばそれもまたさにあらずのようなのです。
ポイントは第1作のチェロ・ソナタにわざわざ「フランスの音楽家クロード・ドビュッシー作曲家」と記していることです。
そうなのです、これは聞いてもらえば何となく雰囲気で分かると思うのですが、この2作品はいずれもソナタ形式を持たないソナタになっているのです。この背景には、作曲当時が第1次世界大戦のさなかであり、そこにて敵国ドイツへの対抗意識があったことは否定できず、それ故にわざわざ「フランスの音楽家」と記した面もあったようです。
まあ、何といってもソナタ形式と言えばドイツですよね。
しかし、そう言う愛国主義的側面があったことも事実なのでしょうが、それよりも晩年のドビュッシーが「ソナタ形式」というスタイルにウンザリしていたことの方が大きかったようです。彼はストラヴィンスキーに宛てた手紙の中でソナタ形式が持っている「三段論法的な聴覚努力を強制しない」作品を書きたいと述べています。そして、そう言う入らぬ努力を聞き手に強いる形式ではなくて「フランス古来の形式を極めて優雅に用いたい」とも明言しているのです。
つまり、フランス古来の古典的な組曲という古い革袋に新しい酒を盛ろうとしたのです。
それだけに、より意欲的な楽器の組み合わせを構想していた残りの3曲が彼の死によって完成しなかったことは、いかにドビュッシーは苦手と公言している私でも残念だったと言わざるを得ません。
しかし、それでも最後の最後に3曲も、室内楽に新しい地平を切り開こうとした意欲的な作品を3つも残してくれたことに感謝した方がいいのかもしれません。
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
- 第1楽章(アレグロ・ヴィヴァーチェ):3つの部分から成り、第1部の主題に対して第2部の主題は内向的な性格を持ちます。そして、第3部の主題は第1部の主題と入り交じりながら巧みに構成されています。
- 第2楽章(間奏曲):気まぐれで軽快にと記された楽章で、主題はリズムの化身のような雰囲気を持ちます。続く第2の主題はポルタメントの効果が用いられていて、最後は第3の主題がユニゾンでカンタービレ風の美しい音楽で締めくくります。
- 第3楽章(フィナーレ):主題がスペイン風の色彩溢れる部分をはさんで様々に変化を見せていきます。その飛び跳ねるような華やかさに溢れた音楽は最後にさらに活気を見せて終結へと向かいます。
室内楽での不可欠の相棒
フランチェスカッティは協奏曲おいては伴奏指揮者を選ぶということを書きました。
それでは、室内楽ではどうだったのかと調べてみれば、それはもう「選ぶ」どころの話ではなく、まさにロベルト・カサドシュ一択といっていいほどの偏りを見せています。
確かに、彼の優れたテクニックに呼応でき、さらにはその妖艶な音色で歌い上げられる深い感情のこもった音楽を真に理解でき、さらにその音楽の寄り添える相手といえば他にだれが思い浮かぶでしょう。カサドシュほぼ一択というこの事実を前にして、考えてみればなるほどそうなるしかないのかと一人納得している自分に気づきました。
室内楽なのですから、共演相手からご本尊として奉られても困ります。
協奏曲ならば思う存分自分の色を前面に押し出してフランチェスカッティの音楽に徹すれば、それはそれなりに面白い演奏にもなるでしょう。しかし、室内楽ではそういうわけにはいきません。かといって、すぐれたテクニックを持っていても「我」の強い相手だと、それはそれでちぐはぐな音楽になってしまうことは目に見えています。
確かにフランチェスカッティのヴァイオリンは、豊かで艶やかな音色で聞き手の耳を引き付けますが、それ故に深みが足りないとか、精神性に欠けるなどという悪口もついて回りました。
それに対して、カサドシュはどちらかといえば古典的な均衡を重んじるように思われるピアニストです。しかし、カサドシュはフランチェスカッティの美しさとあふれるような情熱を一切妨げることはなく、それどころかそれをピアノの側から寄り添いながらもより高いレベルへと引き上げる腕を持っていたのです。
ただし、「カサドシュってそんなにすごいピアニストなんですか」という声も聞こえてきそうです。
その原因は、セル&クリーブランド管と録音した一連のモーツァルトの協奏曲録音にあります。あれは演奏の主導権は完ぺきにセルの手中にあり、その強いコントロール下で絶妙なバランス感覚を発揮してピアノを弾ききったのがカサドシュでした。そして、その時のクリーブランド管が白磁を思わせるような透明感に満ちた響きの世界を展開しているので、口さがない連中に「カサドシュのピアノが邪魔だ」などと言ったからです。
「カサドシュのピアノはいただけない。ブラームスのピアノ協奏曲と違って、ピアノがダメだと台無しになってしまう曲ばかりなので、いずれの曲もセルのオケだけ楽しんでいる。」なんて書いている人もいるほどです。
しかし思い出してください、セルほどソリストの選定にうるさい指揮者はいなかったという事実を。そのセルがモーツァルトの録音において選んだソリストがカサドシュだったという事実を。
確かに、モーツァルトに関しては最初から最後までセルの美学の中で事は進んでいくように見えます。ほとんどのピアニストは不自由を強いられる上に注文だけは人一倍多いというセルのような指揮者との共演はできれば避けたいことでしょう。
しかし、カサドシュは己の美学に徹底的にこだわり抜く完全主義者(悪く言えば偏執狂^^;)の美学を壊すことなく20年近くもつきあい続けたのです。
セルのような完璧主義に取りつかれた偏執狂に淡々と20年近くもつきあい続けられるピアニストはカサドシュ以外には思い当たりません。
そう思えば、セルとはベクトルが異なるとはいえ、フランチェスカッテもまた己の美学を徹底的に貫き通した人でした。そんなフランチェスカッティにとってカサドシュ以上の相棒がこの世に存在するとは思えません。
本当にカサドシュこそはどこまでも懐の大きい、いわゆる中国語で言うところの「大人」だったのです。
そして、私たちはそういう「大人」のおかげで、心いくまでフランチェスカッティの魅力あれるヴァイオリンの世界に浸る幸せを得ることができたのです。
まさに、フランチェスカッティにとってカサドシュこそが、室内楽の分野における不可欠の相棒だったのです。