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ベートーベン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73 「皇帝」


(P)ヴィルヘルム・ケンプ パウル・ファン・ケンペン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1953年5月19~25日録音をダウンロード

  1. ベートーベン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73 「皇帝」 「第1楽章」
  2. ベートーベン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73 「皇帝」 「第2楽章」
  3. ベートーベン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 Op.73 「皇帝」 「第3楽章」

演奏者の即興によるカデンツァは不必要



ピアノ協奏曲というジャンルはベートーベンにとってあまりやる気の出る仕事ではなかったようです。ピアノソナタが彼の作曲家人生のすべての時期にわたって創作されているのに、協奏曲は初期から中期に至る時期に限られています。
第5番の、通称「皇帝」と呼ばれるこのピアノコンチェルトがこの分野における最後の仕事となっています。

それはコンチェルトという形式が持っている制約のためでしょうか。
これはあちこちで書いていますので、ここでもまた繰り返すのは気が引けるのですが、やはり書いておきます。(^^;

いつの時代にあっても、コンチェルトというのはソリストの名人芸披露のための道具であるという事実からは抜け出せません。つまり、ソリストがひきたつように書かれていることが大前提であり、何よりも外面的な効果が重視されます。
ベートーベンもピアニストでもあったわけですから、ウィーンで売り出していくためには自分のためにいくつかのコンチェルトを創作する必要がありました。

しかし、上で述べたような制約は、何よりも音楽の内面性を重視するベートーベンにとっては決して気の進む仕事でなかったことは容易に想像できます。
そのため、華麗な名人芸や華やかな雰囲気を保ちながらも、真面目に音楽を聴こうとする人の耳にも耐えられるような作品を書こうと試みました。(おそらく最も厳しい聞き手はベートーベン自身であったはずです。)
その意味では、晩年のモーツァルトが挑んだコンチェルトの世界を最も正当な形で継承した人物だといえます。
実際、モーツァルトからベートーベンへと引き継がれた仕事によって、協奏曲というジャンルはその夜限りのなぐさみものの音楽から、まじめに聞くに値する音楽形式へと引き上げられたのです。

ベートーベンのそうのような努力は、この第5番の協奏曲において「演奏者の即興によるカデンツァは不必要」という域にまで達します。

自分の意図した音楽の流れを演奏者の気まぐれで壊されたくないと言う思いから、第1番のコンチェルトからカデンツァはベートーベン自身の手で書かれていました。しかし、それを使うかどうかは演奏者にゆだねられていました。自らがカデンツァを書いて、それを使う、使わないは演奏者にゆだねると言っても、ほとんどはベートーベン自身が演奏するのですから問題はなかったのでしょう。
しかし、聴力の衰えから、第5番を創作したときは自らが公開の場で演奏することは不可能になっていました。
自らが演奏することが不可能となると、やはり演奏者の恣意的判断にゆだねることには躊躇があったのでしょう。

しかし、その様な決断は、コンチェルトが名人芸の披露の場であったことを考えると画期的な事だったといえます。

そして、これを最後にベートーベンは新しい協奏曲を完成させることはありませんでした。聴力が衰え、ピアニストとして活躍することが不可能となっていたベートーベンにとってこの分野の仕事は自分にとってはもはや必要のない仕事になったと言うことです。
そして、そうなるとこのジャンルは気の進む仕事ではなかったようで、その後も何人かのピアノストから依頼はあったようですが完成はさせていません。

ベートーベンにとってソナタこそがピアノに最も相応しい言葉だったようです 。


忘れられつつある存在かもしれませんが・・・。


評論家というのは困った存在で、功成り名を遂げた老大家の緩みきった演奏を「深い精神性に裏打ちされた枯れた演奏」などと褒める人が多すぎます。その心は、シルバーシート優先の安全運転を心がけておけば己の身は安全だからです。
しかし、可哀想なのは、その様な評価に値しないような演奏が結果として自分を代表する演奏として定着させられてしまう演奏家の方です。

50年代におけるケンプはベートーベン演奏の権威でした。その存在はシュナーベルよりもバックハウスよりも大きなものがありました。
しかし、それから半世紀近い年月が経過すると、ケンプの存在は次第に忘れられつつあるように見えます。
シュナーベルはテクニックの弱さを批判されながらも一部に根強いファンを獲得しているように見えますし、バックハウスに関しては、いまだにベートーベン演奏の権威としてのポジションを堅持していることと比べると対照的です。

ケンプと言えばバッハの編曲ものを演奏しているCDをたまに聴くぐらいで、ユング君にとってはそれほど重要なピアニストではありませんでした。
それが、大きく変化したのはシュナイダーハンとのコンビで録音したベートーベンのヴァイオリンソナタを聴いたことがきっかけでした。シュナイダーハンの美音も素晴らしかったのですが、それを支えるケンプのピアノの深々としたファンタスティックな響きにもすっかり魅了されてしまいました。
それは、かつて評論家先生たちが「褒めて」いたケンプ晩年の演奏とは全く別人のような素晴らしさでした。
これにすっかり驚いてしまったユング君は、手に入る範囲でケンプの50年代の録音を集めてみて片っ端から聞いてみました。そして、すっかりケンプという人が好きになってしまいました。
このベートーベンのピアノコンチェルトもなんとファンタスティックで深い感情に裏打ちされた演奏でしょうか。これを聴いていると、いじけた心のひだがいつの間にか伸びやかに広がっていくような心地よさに満ちています。

最近は出来る限り口は慎むようにしているのですが、一言だけ。
ケンプの50年代の録音を無視して、晩年のヨタヨタ演奏を褒めちぎっていた評論家は、・・・Stop kidding around!

ケンプという人は、もともと派手な人ではありませんでした。
教会オルガニストの家庭に生まれたということ、大学では音楽だけでなく哲学も学んだこと、さらに作曲活動にも熱心で基本的には自分のことをピアニストではなく作曲家と考えていたことなどが、その様な彼の傾向を作り上げたと思われます。
ですから、演奏家にとって必要不可欠と思われるテクニックの習得にはあまり熱心ではありませんでした。

そんなケンプが大きく変身するきっかけになったのは、第二次大戦後にナチスへの協力疑惑で演奏禁止になったことがでした。
ケンプはナチスが政権についたあともドイツに残ることを選択しました。そして、時にはドイツを捨てた芸術家に批判的な言葉を投げかけたこともありました。しかし、カラヤンのように積極的にナチスに取り入って自らのキャリアアップをはかったわけではなく、逆にナチスとは常に一定の距離を維持していました。そのために、戦時中は演奏会やレッスンを行うことすら困難になり、経済的には大変な困窮を強いられたのでした。
それでも、戦争が終わると、ドイツ文化の代表をしていくつかの国で演奏活動を行ったことがナチスへの協力行為として断罪されたのでした。
カラヤンのように積極的にナチスの党員となり、それをテコとしてキャリアアップを図った人間が不問に付され、逆にナチスとは一定の距離を置いて緊張関係を維持したフルトヴェングラーやケンプが断罪されたというのは今から考えると理解に苦しむ話です。

しかし、ケンプはこの困難の時期を、自らの弱点である演奏技術のスキルアップのための時間として費やしました。「この困難は自分を人間的・芸術的に高めてくれた」と後のインタビューで語っているように、演奏禁止が解除されたときには見違えるほどの安定感を身につけて再登場し、50年代にはベートーベン演奏の権威と言われるまでになったのでした。

その意味では、50年代の演奏がケンプにとっては最も優れたものだといえます。
しかし、技術的な安定感を増したとは言っても、バックハウスのようなヴィルトゥオーゾはありません。
ケンプという人は、そう言う面において偉大だったのではなく、作品に内包されている人間的な感情をこの上もなくファンタスティックに描き出した点にこそ彼の偉大さがあります。
ケンプという人は、典型的なドイツのピアニストと言われるのですが、その言葉から連想されるような「重さ」からは全く無縁です。ケンプの演奏は、作品に内包される人間的真実にどれほど肉薄しようと、そこからもたらされる表現が決して重くなることはありませんでした。

しかし、時代はギーゼキングに代表されるようなザッハリヒカイトな演奏が求められるようになっていきます。ピアノの響きも、ケンプのような暖かみ満ちたものではなく、もっと硬質でクリスタルなものが好まれるようになっていきます。
それでも、ケンプは最後まで己のスタイルを変えようとはしませんでした。彼は長生きしすぎたのかもしれません。