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ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58


(P)ヴィルヘルム・ケンプ パウル・ファン・ケンペン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1953年5月21~23日録音をダウンロード

  1. ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58 「第1楽章」
  2. ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58 「第2楽章」
  3. ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58 「第3楽章」

新しい世界への開拓



1805年に第3番の協奏曲を完成させたベートーベンは、このパセティックな作品とは全く異なる明るくて幸福感に満ちた新しい第4番の協奏曲を書き始めます。そして、翌年の7月に一応の完成を見たものの多少の手なしが必要だったようで、最終的にはその年の暮れ頃に完成しただろうと言われています。

この作品はピアノソナタの作曲家と交響曲の作曲家が融合した作品だと言われ、特にこの時期のベートーベンのを特徴づける新しい世界への開拓精神があふれた作品だと言われてきました。
それは、第1楽章の冒頭においてピアノが第1主題を奏して音楽が始まるとか、第2楽章がフェルマータで終了してそのまま第3楽章に切れ目なく流れていくとか、そう言う形式的な面だけではなりません。もちろんそれも重要な要因ですが、それよりも重要なことは作品全体に漂う即興性と幻想的な性格にこそベートーベンの新しいチャレンジがあります。

その意味で、この作品に呼応するのが交響曲の第4番でしょう。
壮大で構築的な「エロイカ」を書いたベートーベンが次にチャレンジした第4番はガラリとその性格を変えて、何よりもファンタジックなものを交響曲という形式に持ち込もうとしました。それと同じ方向性がこの協奏曲の中にも流れています。
パセティックでアパショナータなベートーベンは姿を潜め、ロマンティックでファンタジックなベートーベンが姿をあらわしているのです。

とりわけ、第2楽章で聞くことの出来る「歌」の素晴らしさは、その様なベートーベンの新生面をはっきりと示しています。
「復讐の女神たちをやわらげるオルフェウス」とリストは語りましたし、ショパンのプレリュードにまでこの楽章の影響が及んでいることを指摘する人もいます。
そして、これを持ってベートーベンのピアノ協奏曲の最高傑作とする人もいます。ユング君も個人的には第5番の協奏曲よりもこちらの方を高く評価しています。(そんなことはどうでもいい!と言われそうですが・・・)


忘れられつつある存在かもしれませんが・・・。


評論家というのは困った存在で、功成り名を遂げた老大家の緩みきった演奏を「深い精神性に裏打ちされた枯れた演奏」などと褒める人が多すぎます。その心は、シルバーシート優先の安全運転を心がけておけば己の身は安全だからです。
しかし、可哀想なのは、その様な評価に値しないような演奏が結果として自分を代表する演奏として定着させられてしまう演奏家の方です。

50年代におけるケンプはベートーベン演奏の権威でした。その存在はシュナーベルよりもバックハウスよりも大きなものがありました。
しかし、それから半世紀近い年月が経過すると、ケンプの存在は次第に忘れられつつあるように見えます。
シュナーベルはテクニックの弱さを批判されながらも一部に根強いファンを獲得しているように見えますし、バックハウスに関しては、いまだにベートーベン演奏の権威としてのポジションを堅持していることと比べると対照的です。

ケンプと言えばバッハの編曲ものを演奏しているCDをたまに聴くぐらいで、ユング君にとってはそれほど重要なピアニストではありませんでした。
それが、大きく変化したのはシュナイダーハンとのコンビで録音したベートーベンのヴァイオリンソナタを聴いたことがきっかけでした。シュナイダーハンの美音も素晴らしかったのですが、それを支えるケンプのピアノの深々としたファンタスティックな響きにもすっかり魅了されてしまいました。
それは、かつて評論家先生たちが「褒めて」いたケンプ晩年の演奏とは全く別人のような素晴らしさでした。
これにすっかり驚いてしまったユング君は、手に入る範囲でケンプの50年代の録音を集めてみて片っ端から聞いてみました。そして、すっかりケンプという人が好きになってしまいました。
このベートーベンのピアノコンチェルトもなんとファンタスティックで深い感情に裏打ちされた演奏でしょうか。これを聴いていると、いじけた心のひだがいつの間にか伸びやかに広がっていくような心地よさに満ちています。

最近は出来る限り口は慎むようにしているのですが、一言だけ。
ケンプの50年代の録音を無視して、晩年のヨタヨタ演奏を褒めちぎっていた評論家は、・・・Stop kidding around!

ケンプという人は、もともと派手な人ではありませんでした。
教会オルガニストの家庭に生まれたということ、大学では音楽だけでなく哲学も学んだこと、さらに作曲活動にも熱心で基本的には自分のことをピアニストではなく作曲家と考えていたことなどが、その様な彼の傾向を作り上げたと思われます。
ですから、演奏家にとって必要不可欠と思われるテクニックの習得にはあまり熱心ではありませんでした。

そんなケンプが大きく変身するきっかけになったのは、第二次大戦後にナチスへの協力疑惑で演奏禁止になったことがでした。
ケンプはナチスが政権についたあともドイツに残ることを選択しました。そして、時にはドイツを捨てた芸術家に批判的な言葉を投げかけたこともありました。しかし、カラヤンのように積極的にナチスに取り入って自らのキャリアアップをはかったわけではなく、逆にナチスとは常に一定の距離を維持していました。そのために、戦時中は演奏会やレッスンを行うことすら困難になり、経済的には大変な困窮を強いられたのでした。
それでも、戦争が終わると、ドイツ文化の代表をしていくつかの国で演奏活動を行ったことがナチスへの協力行為として断罪されたのでした。
カラヤンのように積極的にナチスの党員となり、それをテコとしてキャリアアップを図った人間が不問に付され、逆にナチスとは一定の距離を置いて緊張関係を維持したフルトヴェングラーやケンプが断罪されたというのは今から考えると理解に苦しむ話です。

しかし、ケンプはこの困難の時期を、自らの弱点である演奏技術のスキルアップのための時間として費やしました。「この困難は自分を人間的・芸術的に高めてくれた」と後のインタビューで語っているように、演奏禁止が解除されたときには見違えるほどの安定感を身につけて再登場し、50年代にはベートーベン演奏の権威と言われるまでになったのでした。

その意味では、50年代の演奏がケンプにとっては最も優れたものだといえます。
しかし、技術的な安定感を増したとは言っても、バックハウスのようなヴィルトゥオーゾはありません。
ケンプという人は、そう言う面において偉大だったのではなく、作品に内包されている人間的な感情をこの上もなくファンタスティックに描き出した点にこそ彼の偉大さがあります。
ケンプという人は、典型的なドイツのピアニストと言われるのですが、その言葉から連想されるような「重さ」からは全く無縁です。ケンプの演奏は、作品に内包される人間的真実にどれほど肉薄しようと、そこからもたらされる表現が決して重くなることはありませんでした。

しかし、時代はギーゼキングに代表されるようなザッハリヒカイトな演奏が求められるようになっていきます。ピアノの響きも、ケンプのような暖かみ満ちたものではなく、もっと硬質でクリスタルなものが好まれるようになっていきます。
それでも、ケンプは最後まで己のスタイルを変えようとはしませんでした。彼は長生きしすぎたのかもしれません。