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マスネ:組曲 第7番 「アルザスの風景」(Massenet:Scenes Alsaciennes Orchestral Suite No.7)
ディミトリ・ミトロプーロス指揮:ミネアポリス交響楽団 1946年3月11日録音(Dimitris Mitropoulos:Minneapolis Symphony Orchestra Recorded on March 11, 1946)をダウンロード
- Massenet:Scenes Alsaciennes Orchestral Suite No.7 [1.Sunday Morning]
- Massenet:Scenes Alsaciennes Orchestral Suite No.7 [2.At The Inn]
- Massenet:Scenes Alsaciennes Orchestral Suite No.7 [3.Under The Lindens]
- Massenet:Scenes Alsaciennes Orchestral Suite No.7 [4.Sunday Evening: Alsatian Air And Retreat]
アルザスの風景

マスネといえば今では「タイスの瞑想曲」くらいしか思いうかばないのですが、19世紀の終わり頃にはその甘美なメロディでとても人気のある作曲家でした
そんなマスネの管弦楽組曲の中で最も人気のある作品の一つが組曲 第7番 「アルザスの風景」です。
プロイセン=フランス戦争(1870-71年)でドイツ領となったアルザス地方への郷愁を込めて、アルデノ・ドーデの詩に基づき、村の平和な情景が全4楽章で描かれています。
- 日曜日の朝 (Dimanche matin)
朝の静けさと、教会の鐘の音、礼拝へ向かう人々の様子が穏やかに描写されます。 - 居酒屋にて (Au cabaret)
活気ある居酒屋の風景。ワルツ風のリズムに乗って、楽しげな村人たちの踊りや騒ぎが表現されています。 - 菩提樹の下で (Sous les tilleuls)
この組曲で最も有名な楽章です。夕暮れ時、チェロとクラリネットの独奏が恋人たちの語らいを美しく歌い上げます。 - 日曜日の夕暮れ (Dimanche soir)
村の祭りの賑わいと、背後に聞こえる軍隊のラッパの音。かつての平和な日々への想いがクライマックスを迎え、華やかに締めくくられます。
不完全性への寛容
昨今は右を見ても左を見てもAI絡みの話題があふれています。
すでに、AIの進歩は勝ち負けがはっきりするゲームにおいては人間の領域をはるかに凌駕してしまいました。さらに、生成AIは文章や画像などをまるで人間が作ったかのように作り出します。
おそらく、近いうちに生成AIはやがては、まるで人間が演奏したかのような音楽を生み出すことになるでしょう。
さらに言えば、例えば数学の世界で未だ未解決の課題がAIによって見事に証明されたり、物理の世界で今までの常識を覆すような理論が生み出されてしまうような事が起こるかもしれません。
そうなれば、人間というものの存在意義が疑念に去らされるような事態になるかもしれません。
しかし、すでに人間の領域をはるかに凌駕している将棋のような世界でも、人間同士による対局に意味がなくなる事はありませんでした。どれほど、AIがそれぞれの局面で最善手を示しても、人間同士の対局にはそれだけでない魅力が詰まっていることに私たちは気づかされたのでした。
おそらく、そう言う人間が持つ不完全性というものが、人間の存在意義を支えてくれるという、おかしなパラドックスが生じるのかもしれません。
おそらく、作曲家の楽譜に従って正確に演奏することだけが理想とするならばすでに人間はAIにかなわない領域が存在します。
おそらく、AIはそう言う完璧さだけでなくでなく、人間くさい演奏解釈などと言うものも身につけていくかもしれません。
今さら言うまでもないことですが、楽譜というものは絶対的なもののように見えて、その実は極めて曖昧な存在で、作曲家が伝えたいものを完璧に伝えきれるような存在ではありません。
その「伝えきれない」部分に関して「解釈」というものが入り込む必然性があります。
演奏家は楽譜を前にしたときにそこに己の解釈に基づいた何らかの確信の様なものをつかみ取る必要があります。
しかし、その事もいつかAIは身につけていくでしょう。
そうなれば、人間による音楽演奏というものはどうなるのかという危惧が芽生えてきます。
しかし、そう言う時代になっても人間による演奏が意味を失うことはないと私は信じています。
それは、人間が持つ不完全性が人間の存在意義を担保すると信じるからです。
例えばオーケストラ演奏を例にとってみれば、指揮者の作品に対する解釈とその解釈に対する確信がいかに確固たるものであっても、そこに不完全な人間による合奏で音楽は作りあげざるを得ないという不完全性が消えることはないからです。
それは、どれほど執拗にリハーサルを重ね、鬼のようにオケを締め上げてもその不完全性が消え去ることはありません。
そして、その不完全性こそがAIには不可能な人間だけが持つ魅力を担保するのです。
それは、将棋などにおける、間違いだらけの人間同士の対局が持つ面白さとどこか通じるものがあるのかもしれません。
前振りがあまりにも長くなりすぎました。(^^;
何故、急にこんな事をいいだしたのかと言えば、ミトロプーロスが残した録音を次々と聞いていくと、彼が持つ不完全性への寛容さに気づかざるを得なかったからです。
彼の音楽は常に己への強い確信に貫かれています。しかし、それを現実の音に変えてくれる個々のオーケストラプレーヤーの不完全性に対しては実に寛容でした。
彼はオケに対して声を荒げるようなことは絶対になかったそうです。これはトスカニーニを筆頭に強面系の指揮者が普通だった当時のアメリカでは異例の存在でした。
そして、さらに驚くのはその様な寛容性の中で、それでも最後には見事に彼ならではの音楽に仕上げてしまう事です。その嘘のような統率力には驚嘆するしかありません。
そして、ミトロプーロスが持つオーケストラへの寛容性は結果的には音楽をすることの喜びのようなものをあふれ出させます。
おそらくそう言う人間が宿命的に持たざるを得ない不完全性を受け入れる彼の音楽は、AIによる「完璧」な演奏とは異なる魅力を持ち続けることでしょう。
決して彼の残した録音の多くは名盤とよばれるようなことはないのでしょうが、こういう熱さと喜びに満ちた音楽というものもまた聞くものにとっては大いに魅力的です。