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アントン・ルビンシテイン:ピアノ協奏曲 第4番 ニ短調 作品70(Anton Rubinstein:Piano Concerto No.4 in D Minor, Op.70)
(P)オスカー・レヴァント:ディミトリ・ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィルハーモニック1952年3月31日録音(Oscar Levant:(Con)Dimitri Mitropoulos Philharmonic-Symphony Orchestra Of New York Recorded on March 31, 1952)をダウンロード
- Anton Rubinstein:Piano Concerto No.4 in D Minor, Op.70 [1.Moderato Assai]
- Anton Rubinstein:Piano Concerto No.4 in D Minor, Op.70 [2.Andante]
- Anton Rubinstein:Piano Concerto No.4 in D Minor, Op.70 [3.Allegro]
演奏機会のある数少ない作品

ルビンシテインの協奏曲と聞くと、「ルビンシテインって作曲してたの」と思われる人もいるかもしれません。しかし、こちらのルビンシテインと20世紀のピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインとは別人ですし、血縁関係もないようです。
なお、どうでもいいことですが「アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテイン」も「アルトゥール・ルービンシュタイン」も、ともに綴りは「Rubinstein」です。
なのに、一般的な日本語表記は「ルビンシテイン」と「ルービンシュタイン」となります。この違いはどこから来るのでしょうかね。
まあ、そんなことはどうでもいいです。
「アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテイン」は19世紀に活躍したピアニストで作曲活動も精力的に行っていた人物です。
そして、ショパンやリストとも面識があったということですから、大体どういう時代の人かは想像がつくと思われます。さらに、ベルリンでの演奏会でメンデルスゾーンとマイアベーアの知遇を得て、マイアベーアの勧めて作曲と音楽理論を学ぶことになりました。
その後もヨーロッパやアメリカで精力的に演奏会を開いて世界的名声を博し、ロシア・ピアノ流派の祖と言われています。
1862年にロシア最初の専門的な音楽教育機関であるサンクトペテルブルク音楽院を創設し、1859年にはロシア音楽協会を創設しました。
さらに、ヨーロッパの音楽的伝統をロシアに根付かせるために、オペラから歌曲までのすべてのジャンルで作曲活動をおこなうようになりました。
しかし、そのことが民族主義的作曲家グループである「ロシア5人組」との対立を招いたようです。彼らからすればルビンシテインの音楽はドイツ・ロマン主義的で保守的な音楽としか思えなかったのでしょう。
そのためか、あらゆるジャンルに膨大な作品を残したにも関わらず現在ではほとんど演奏される機会はなくなってしまいました。そんな中で「ピアノ協奏曲第4番」は演奏機会のある数少ない作品です
マルチな才能と活動
オスカー・レヴァントというピアニストは知るところが皆無だったのですが、調べてみるとかなり興味深い人物だったようです。
まずはその肩書なのですが、コンサートピアニスト、作曲家、指揮者だったというのはわかるのですが、さらに、ラジオのゲームショーのパネリスト、テレビのトークショーの司会者、コメディアン、俳優であったと聞くといささか驚いてしまいます。
彼のキャリアのスタートはハリウッドだったようで、ジョージ・ガーシュインと出会い、親交を深めました。彼の死後はガーシュウィン作品の最も重要な解釈者・演奏家として知られました。
また、20本以上の映画の音楽を作曲するとともに、数多くのポピュラーミュージックでヒット曲を手がけています。
さらに、ガーシュインをはじめとして数多くのクラシック音楽の録音も行い、1940年代には、アメリカ合衆国で最も高額の出演料を受け取るコンサートピアニストだったようです。
さらに、作曲や演奏をするだけでなく、ハリウッド映画にも数多く出演し、ガーシュインの伝記映画「ラプソディ・イン・ブルー」では本人役で出演しています。
そして、1950年代になると、NBCのラジオとテレビのゲーム番組に時折パネリストとして出演し、ロサンゼルスのKCOP-TVでトーク番組「The Oscar Levant Show」の司会もつとめていました。、
実に面白い、マルチな才能と活動を行った人物だったようです。
2023年には、彼の生涯を題材にした舞台「Good Night, Oscar」がブロードウェイで上演されました。