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メンデルスゾーン:交響曲第4番 イ長調 「イタリア」 op.90
トスカニーニ指揮 NBC交響楽団 1954年2月26〜28日をダウンロード
- メンデルスゾーン:交響曲第4番 イ長調 「イタリア」 「第1楽章」
- メンデルスゾーン:交響曲第4番 イ長調 「イタリア」 「第2楽章」
- メンデルスゾーン:交響曲第4番 イ長調 「イタリア」 「第3楽章」
- メンデルスゾーン:交響曲第4番 イ長調 「イタリア」 「第4楽章」
弾むリズムとほの暗いメロディ
メンデルスゾーンが書いた交響曲の中で最も有名なのがこの「イタリア」でしょう。
この作品はその名の通り1830年から31年にかけてのイタリア旅行の最中にインスピレーションを得てイタリアの地で作曲されました。しかし、旅行中に完成することはなく、ロンドンのフィルハーモニア協会からの依頼を受けて1833年にようやく完成させています。
初演は同年の5月13日に自らの指揮で初演を行い大成功をおさめるのですが、メンデルスゾーン自身は不満を感じたようで、その後38年に大規模な改訂を行っています。ただ、その改訂もメンデルゾーン自身を満足させるものではなくて、結局彼は死ぬまでこの作品のスコアを手元に置いて改訂を続けました。そのため、現在では問題が残されたままの改訂版ではなくて、それなりに仕上がった33年版を用いることが一般的です。
作品の特徴は弾むようなリズムがもたらす躍動感と、短調のメロディが不思議な融合を見せている点にあります。
通常この作品は「イタリア」という名が示すように、明るい陽光を連想させる音楽をイメージするのですが、実態は第2楽章と最終楽章が短調で書かれていて、ほの暗い情感を醸し出しています。明るさ一辺倒のように見える第1楽章でも、中間部は短調で書かれています。
しかし、音楽は常に細かく揺れ動き、とりわけ最終楽章は「サルタレロ」と呼ばれるイタリア舞曲のリズムが全編を貫いていて、実に不思議な感覚を味わうことができます。
何もつけくわえる必要のない歴史的録音
メンデルスゾーンの「イタリア」とレスピーギの「ローマの松」の録音だけあれば、それ以外の全ての業績が消えて無くなったとしてもトスカニーニの名前は歴史に刻み込まれるだろう。
誰の言葉かは失念しましたが、まさにその通りで、この歴史的金字塔とも言うべきこの録音を前にして今さらつけくわえる言葉はありません。
ただ、蛇足を承知で一言つけ加えれば、この録音はトスカニーニ引退の引き金となったあの歴史的事件(1954年4月4日)のわずか1ヶ月ほど前の事(1954年2月26〜28日)だと言うことは知っておいていいことでしょう。
最近、この歴史的事件をリアルに収録したCDがリリースされました。そのCDの売りとして次のような言葉が付与されています。
「このディスクはトスカニーニの生涯最後の演奏会をすべて収録したものである。この演奏会の「タンホイザー」序曲とバッカナーレの途中、トスカニーニは記憶障害を起こし、そこで演奏が中断されるというショッキングな出来事が起きたため、トスカニーニは引退を決意したと言われている。
この演奏会はよく知られているようにステレオでも収録されているが、そのステレオ版にはその空白の時間が収められていない。しかし、ベン・グラウアーのアナウンスにより生中継されたラジオ放送は、音声そのものはモノーラルではあるが、この空白の時間が克明に記されている。それは突然襲ってくる。長い沈黙のあと、グラウアーが "Due to operation difficulties, there is a temporary pause of our broadcast from Carnegie Hall" (技術上の不手際により、ただいまカーネギー・ホールからの放送が中断しています)と言い、一瞬だが調整室のスタッフが凍り付いているような緊張感も伝わってくる。
最近考えるのは、この記憶喪失は突然やってきたものなのか?ということです。一般的には突然の出来事にショックを受けたトスカニーニはこれをきっかけにすっぱり引退をしたことになっているのですが、果たしてそうなのでしょうか?
音楽に己の人生をかけてきたこの男が、たかが一度のアクシデントでそれを捨て去ってしまうものでしょうか?そうではなくて、このような記憶障害がたびたび彼を襲っていて、いつか演奏会でそれが原因となって大失敗をしでかすのではないかという恐れを抱き続けてきたのではないでしょうか?
「われわれは予期せぬものにつまずいたときよりも、予期したことが起こったときに、驚くものである。」(エリック・ホッファー)
もしそうだとすれば、その様な恐れを抱きながらも最後の最後まで指揮活動を続けた事に、トスカニーニという男の凄味と執念を感じます。そして、逆説的な言い方になりますが、そう言う執念の産物がこのイタリアの録音ではないかと思うのです。
とてつもない集中力によって構築された壮麗なシンフォニーを聴くとき、この想像はそれほど外れてはいないと思うのですが、いかがなものでしょうか。