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モーツァルト:ピアノソナタ第1番 ハ長調 K279
(P)ペルルミュテール 1956年録音をダウンロード
モーツァルトは完全に自分自身になりきっていない。
ソナタ第1番 ハ長調 K279 1775 ミュンヘン
ソナタ第2番 ヘ長調 K280 1775 ミュンヘン
ソナタ第3番 変ロ長調 K281 1775 ミュンヘン
ソナタ第4番 変ホ長調 K282 1775 ミュンヘン
ソナタ第5番 ト長調 K 283 1775 ミュンヘン
ソナタ第6番 ニ長調 K 284 1775 ミュンヘン
これはケッヘル番号からも分かるように、6曲をワンセットとして作曲されたもので、この6曲ワンセットというのは当時の風習でした。これらのピアノソナタは「偽りの女庭師」を上演するために過ごした1775年のミュンヘンで作曲されています。
ここで不思議に思うのは、早熟の天才であったモーツァルトが彼にとっては言語のような存在であったピアノのためのソナタを19才になるまでに作曲しなかったのは何故かということです。しかし、少し考えればその疑問は氷解します。
きちんと発言しなければいけないことならば人は何かに書き付けますが、日常のつぶやきをいちいち書き記す人はいません。ピアノの演奏はモーツァルトにとっては日常のつぶやきのようなものであったがゆえに書き記す必要を感じなかったということです。ですから、モーツァルトは19才になるまでピアノソナタを書かなかったのではなくて、書き残さなかったととらえるべきなのでしょう。
この6曲でワンセットになったピアノソナタは、オペラの上演のために冬を過ごしたミュンヘンでデュルニッツ男爵からの注文に応えて作曲したものです。他人に渡すのですから、さすがに脳味噌の中にしまい込んでおくわけにもいかず、ようやくにして「書き残される」ことで第1番のピアノソナタが日の目を見たということです。
アインシュタインも指摘しているようにこれらのソナタは明らかにハイドン風の特徴を持っています。「モーツァルトは完全に自分自身になりきっていない。彼は再び自分自身を発見しなければならない。」と言うように彼はこれらの作品をあまり高く評価していません。しかし、これらの作品は3ヶ月という短い期間に集中して作曲されたことが分かっており、おそらくは今までの即興演奏などでため込んできたあれこれのアイデアをここに凝縮してまとめたものだと思えば、これらは疑いもなく10代のモーツァルトの自画像だといえます。
実際に聞いてみれば分かるようにハイドン風といっても、それぞれの作品の顔立ちはいずれも個性的です。とりわけ第6番のソナタは規模が大きく、まるで交響曲をピアノ用に編曲したような風情だといわれてきました。また、第3楽章の大規模な変奏曲形式はモーツァルトのソナタとしては他に例がなく、厳格な父レオポルドもこの作品をとても高く評価していました。とりわけ33小節にも及ぶアダージョ・カンタービレの第11変奏は本当に美しい音楽です。
今の私には荷が重過ぎる
1956年はモーツァルトの生誕200年に湧いた年で、この年に向けて多くのレコード会社が意欲的な録音を企画し実行に移していきました。例えば、デッカは総力を挙げてこの年に照準を合わせて4大オペラの録音に取り組みました。EMIは1953年にはギーゼキングが世界初のピアノソナタのコンプリートを完成させています。そんな中の一つにこのペルルミュテールによるピアノソナタのコンプリートがありました。
ペルルミュテールはラヴェルの高弟と言うことで、基本的には「ラヴェル弾き」と思われているのですが、このコンプリートの依頼を受けてから積極的にモーツァルトを取り上げるようになっています。もちろん、モーツァルトの録音はこれが最初だと思うのですが、それまでもコンサートではよく取り上げていたようです。しかし、録音という形でモーツァルトと正対するようになってからは、次のように語っています。
「これまでモーツァルトは数多く弾いてきた。だけど今の私には荷が重過ぎる。」
いささか出来すぎた言葉だとは思うのですが、しかし、このコンプリートの録音を聞くと、なるほどな!と思わせられる部分があることも事実です。
とにかくこの演奏は「謙虚」です。
これほどまでも、演奏者の「我」が前面に出ない演奏は珍しいのではないでしょうか。とにかく、つまらないルパートや装飾というものが一切ないので、モーツァルトの音楽が実にクリアに、明晰に浮かび上がってきます。演奏者が「まあ、こんなモンだろう!」という感じで適当に弾きとばしている部分が全くない演奏で、細部の細かい音の動きの一つ一つまでもが確信を持って再現されていきます。その事が結果として、モーツァルト作品の持つ光と影の微妙な交錯が鮮やかなまでに浮かび上がらせてくれます。
なるほど、こういうごまかしのきかない音楽作りでモーツァルトと向き合えば、荷が重すぎると感じるのは当然のことだと納得させられた次第です。
パッと聞いただけでは何の変哲もないありきたりのモーツァルトに聞こえるかもしれませんが、この「変哲もないモーツァルト」を成り立たせるためには、その下部構造においてどれだけの労力がつぎ込まれている事かと呆然とさせられます。
そういう意味では、この演奏は基本的には50年代を席巻した新即物主義の流れの中にあるギーゼキングの業績と同じベクトルを持っています。
しかし、同じベクトルとはいってもギーゼキングにはないものをペルルミュテールは持っています。それが、音色のヨロコビであり、それこそがこの演奏の最大の魅力となっているように思えます。
ユング君はかつてギーゼキングの演奏の歴史的価値を認めながらも「今日の贅沢な耳からすればもう少し愛想というか、ふくよかな華やぎというか、そういう感覚的な楽しみが少しはあってもいいのではないかと思う側面があることも事実です。」と書いたことがあります。この二人、ギーゼキングとペルルミュテールは、モーツァルトに真摯に仕えるというスタンスは同じですが、ペルルミューテルにあってギーゼキングにないのはこの「ふくよかな華やぎ」です。
確かに、ギーゼキングの透明感に満ちた音色も素晴らしいものですが、それがモーツァルトに最適なものか?と聞かれれば疑問なしとは言えません。それに対して、このペルルミュテールの音色にはモーツァルトに相応しい何とも言えないふくよかな華やぎがあります。おそらく、そのかなりの部分がプレイエルのピアノが貢献しているでしょうし、残りの部分をラヴェルが絶賛した繊細に音色を紡ぎ出す彼のタッチが貢献しているのでしょう。
誰かが、この演奏のことを、ピアノ好きにとっては「マタタビ」のような魅力があると語っていました。一度はまってしまえば、これ以外は受け入れられないと思わせるような「魔力」を持った演奏です。
そのためか、この録音は中古市場では天文学的な価格で取引されていました。(聞くところによると、6枚セットのLP全集が100万円!!)
まさに、「マタタビ」のなせる技です。