万葉集を読む(4)~山上憶良「日本挽歌 巻五 794~799番歌」(3)

続けて、憶良の「日本挽歌」を読んでいきます。

3回に分けて何とか長歌を読み解きました。そして、講座に参加してなるほどと思ったのは、長歌というものはどこに「意味の切れ目」があるのかを理解することが大切だと言うことです。
その意味の切れ目に沿って分かち書きをすると以下のようになります。この段落の変わり目で情景や思念が切り替わるのですから、読み上げるときはそこで一呼吸を置いて次のシーンに移っていかなければいけません。

大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして
息だにも いまだ休めず 年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に 打ち靡き 臥(こ)やしぬれ
言はむ術 為む術知らに 石木をも 問ひ放(さ)け知らず
家ならば 形はあらむを
恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか
にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて
家離(ざか)りいます

そして、その様にして、声に出して呼んでみると、妻を失った旅人の慟哭が胸に迫ってきます。
とりわけ、最後に大きく一呼吸を置いて「家離(ざか)りいます」と読み上げれば、そこに葬送の場面が浮かび上がってくるようであり、それこそが「挽歌」としての形式を踏まえた歌だったと言うことです。

憶良はこの「長歌」に続けて反歌5首をそえています。

  1. 家に行きて如何にか吾がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも
  2. 愛(は)しきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべ無さ
  3. 悔しかもかく知らませば青丹よし国内(くぬち)ことごと見せましものを
  4. 妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに
  5. 大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る

センダン(楝の花)

一般的に反歌とは長歌の後にそえられる一首、もしくは複数の短歌のことで、長歌を要約したり補足したりすることが多いようです。
または、どちらかと言えば客観的な事実を述べることが多い長歌に対して、反歌はそのような長歌に対して詠嘆するパターンをとることも多いようです。

確かに、この「日本挽歌」の長歌の方は前段において遠い筑紫の国まで妻がたずねてきた経緯と、その妻が思わぬほどの短い時間で病に倒れ、そして手の施しようもなくこの世を去ってしまったことが述べられています。そして、後段ではその様な事態に直面した夫(旅人)の動揺と後悔、そして先立つ妻への恨み言などが語られていますから、確かに妻の死という客観的事実を述べることに重点がおかれています。

大宰府跡から大野山を望む

それに対して、反歌5首の方は、その様な事実に直面した旅人の、とりわけ葬送の場から帰ってきてからの旅人の心の移り変わりが旅人の詠嘆として語られています。
ですから、これが厳密に言えば「挽歌」ではなくて「哀傷」に分類されるものです。

当然の事ながら、漢籍に対する深い教養があった憶良ですからそんな事は百も承知だったはずなのですが、それでも敢えてこの反歌5首も含めて「日本挽歌」というタイトルをつけたことの意味は大きいと大谷先生は指摘されていました。

よく知られているように万葉集というのは部立てが為されています。
万葉集の部立ては「挽歌」「相聞」「雑歌」の3つで、その内容は以下の通りとされています。

  1. 挽歌:棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌
  2. 相聞歌:「相聞」とは消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌
  3. 雑歌:「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌

「挽歌」の意味が、中国から伝わった「棺を曳く時の歌」という本来の意味から「死者を悼み、哀傷する歌」というように変遷していったことがこの定義付けからも読み取れます。
そして、ザックリとした言い方をすれば、万葉集においても時代が下がるにつれて「挽歌」は「棺を曳く時の歌」から「死者を悼み、哀傷する歌」へと変遷していき、古今和歌集になれば「挽歌=死者を悼み、哀傷する歌」へと変質していくようです。

そして、そう言う「挽歌」の変質がおこる分岐点にこの「日本挽歌」が位置している可能性が高いのではないかと言うことです。
また、この「日本挽歌」の立ち位置がきわめてイレギュラーだと言うことも大谷先生は指摘されていました。

部立てとしての「挽歌」は巻二.三.七.九.一三.一四と言うことになっています。
大谷先生によれば、それ以外の巻で「挽歌」として収録されている例外は7例しかないそうです。
そして、この「日本挽歌」が収録されている巻五は部立てで言えば「雑歌」に分類されますから、これはその数少ないイレギュラーの一つなのです。

さらに、その様な色々な意味での様々なイレギュラーの背景には、これに先立つ「前置漢文」に注目する必要があると言うことなのです。(続く)