万葉集を読む(3)~山上憶良「日本挽歌 巻五 794~799番歌」(2)

さらに続けて、憶良の「日本挽歌」を読んでいきます。

大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして
息だにも いまだ休めず 年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に 打ち靡き 臥(こ)やしぬれ
言はむ術 為む術知らに 石木をも 問ひ放(さ)け知らず
家ならば 形はあらむを
恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか
にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます

この長歌も残すところあと1行になりました。

にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます

にほ鳥(カイツブリ)

「にほ鳥の 二人並び居 語らひし」はそのままでも何となく雰囲気で文意は取れます。
「にほ鳥」は、カイツブリの古名です。そして、この鳥は広く東アジア文化圏においては夫婦の睦まじさを象徴する存在として共通認識されていました。

ですから、これは前段の「恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか」という、先立っていく妻への恨み言に、さらにもう一つ恨み言を重ねているというつながりになっています。
「にほ鳥のように二人連れ添って語らっていた心にも背いて」と言う感じになり、それが最後の「家離(ざか)りいます」という言葉につながって長歌全体が締めくくられます。

問題は、この「家離(ざか)りいます」なのですが、これは明らかに棺が引き出されいくイメージです。
ですから、この最後の2行はまさに棺が引き出されいくときのシーンというか、まさに引き出されていくときに歌われた「葬送歌」の形をとっている事に気づかされるのです。

そして、講師の大谷先生から指摘があったのが、そもそも「挽歌」とはどういう形式の歌なのかと言う「そもそも論」です。
この指摘を受けるまでは、何となく漠然と、「挽歌」とは亡くなった人を悼む歌だという理解をしていました。

しかし、「挽歌」とはもともとは「棺を挽く時に歌われる歌」、つまりは葬儀の時に歌われる「葬送歌」であって、その起源は中国の「文選」にあるというのです。
特に、そこに収録されている「薤露(かいろ)」と「蒿里(こうり)」という二つの歌は中国における「挽歌」の起源と言われているそうです。

例えば、「薤露」とはこのような歌です。
ちなみに「薤」とはニラの草のことです。

薤上露何易晞
露晞明朝更復落
人死一去何時歸

読み下すとこうなります。

薤の上の露 何ぞ晞(かわ)き易き
露は晞けども明朝更に復た落つ
人は死して一たび去らば何れの時にか歸えらん

薤上露何易晞

この歌は、田黄と言う人物に殉じた500人の従者を悼んで歌われたものなのですが、それと同時に彼らの葬送の時に棺を挽きながら歌われた「歌」でもあるのです。
そして、薤(ニラ)の上の露の儚さに人間の命の儚さを重ね合わせ、さらにその儚い薤の上の露でさえ翌朝には蘇るのに人の命が蘇ることは二度とないと嘆くこのレトリックは見事なものです。
そして、そのレトリックがもたらす深い絶望感は現代にも通ずるものがあります。

しかし、だからといってこの歌は広く一般的に亡き人を悼むという「鎮魂歌」ではなくて、まさに葬送の時に歌われる「葬送歌」なのです。

それでは、葬送の時に歌われるのではなく、より幅広く、亡くなった人を悼むための歌は何と分類されるのかと言えばそれは「哀傷」ということになるそうです。
しかし、万葉集の「挽歌」を見てみると、明らかに「哀傷」に分類される歌も全て「挽歌」と分類されています。
そして、この「挽歌」と「哀傷」の垣根は次第になし崩しとなり、古今和歌集などでは「哀傷」一色となっていくようです。

しかしながら、中国の古典にも広く通じていた憶良は、そう言う「挽歌」のそもそも論は熟知していたので、この長歌の最後を「家離りいます」とすることで、そう言う「挽歌」の形式に添わせているのです。

とは言え、この歌が実際に旅人の妻の葬儀の時に歌われたというわけではないようです。
しかし、形式としては葬送の時に、さらに言えば、まさに旅人の妻が棺とともに埋葬地に向かって家を出ようとするときにが歌われたとすることで、最後の「家離りいます」という言葉からは旅人の深い慟哭が伝わってくるのです。

そして、その深い慟哭が読み手として共有できてこそ、これへの反歌五首の深い意味も見えてくるのです。(続く)