万葉集を読む(8)~山上憶良「惑へる情を反さしむるの歌 巻五 800~801番」(2)

前回は、憶良がきわめて厳密に言葉を選択していることについてふれました。

父母を敬ふことを知りて、侍養(じよう)を忘れ

この「侍養」というのは、ただ抽象的に「孝養を尽くす」という意味ではなくて、戸主として親や妻子の生活が成り立つように責任を果たすという具体的な内容を含んだ言葉であることを、「職員令」や「戸令」という律令における記述をもとに明らかにしました。
それと同じ様な厳密な言葉の選択としようが、それ以下においても続きます。

妻子(めこ)を顧みずして、脱履(だつしつ)よりも軽(かろ)みす

「脱履(だつしつ)」というのは分かりにくい言葉なのですが、一般的には「脱ぎ捨てた履物」のような意味になります。
しかし、井上先生の指摘によると、例えば、中国の「文選」に収録されている「頭陀寺碑文(王巾)」では、釈迦が出家をしたときの様子として妻子を脱ぎ捨てた履物のように棄てたと表現されているので、そのような用例が念頭にあったというのです。

つまりは、ここで「脱履」という言葉を使うことで、この男が釈迦のような聖人を気取って、父母や妻子に対して果たすべき責任を放棄したことが読み手とともに共有されるのです。
そして、その共通認識があるからこそ、それに続く言葉の意味も明確になってくるのです。

自ら倍俗(ばいぞく)先生と称ふ。意気(こころいき)は青雲の上に揚(あが)るといえども、身体は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道の聖(ひじり)を験(あらわ)さず。

煩わしいので具体的には引用しませんが、ここでの「倍俗」や「青雲の上」、「塵俗」という言葉も「文選」などの中で一つの表現として定着しています。
つまり、これらの表現は前段の「脱履」と言う表現と響きあうことで、釈迦のような存在とまでは言わないまでも、当人が「倍俗(ばいぞく)先生」と称するような、現世での煩わしさから抜け出した仙人のような存在になると嘯いている姿が浮かび上がってくるのです。

万葉の草花 ハギ

しかし、そういう自ら「倍俗先生」と唱えているような存在に対して、憶良は「身体は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道の聖(ひじり)を験(あらわ)さず。」と嫌みを言っているのです。
どれほど立派なことを言っても、現実は、その身体は未だ俗の中にあるようなので、仙人のような存在になろうという試みは一向に成果を現していないですよね、と嫌みを言っているのです。

そして、憶良はそう言う存在を「蓋(けだ)しこれ山沢(さんたく)に亡命する民ならむ。」と規定するのです。

この「山沢に亡命する民」というのも、雰囲気としては何となく分かるのですが、これもまた「続日本紀」に収録されている「改元に伴う大赦」のなかに収められている表現なのです。
その大赦の詔の中には「山沢に亡命し、軍器を挟蔵し」とか「山沢に亡命し、禁書を挟蔵し」という表現があり、そう言う連中も正直に申し出てくれば罪を赦すと述べているのです。

つまりは、「山沢に亡命」とは戸籍から勝手に離脱して、さらにはそう言う連中が徒党を組んで武器や禁書を隠し持っているというのです。
見方によっては反政府武装集団のような存在かも知れないのですが、それでも自分たちから正直に申し出てくれば全ての罪は赦すというのですから、これは大変なことです。

そして、そう言う「大赦」が改元に伴って何度も出されていることが残された資料から明らかになっていますから、これは当時の政府から見ればかなり困った出来事であったことは間違いありません。

そして、この「序」を含む「嘉摩三部作」は憶良の筑前国守の時代に書かれたものだと言うことを思い出せば、彼がここで「山沢に亡命する民」を取り上げたことの意味は大きいと思えます。
つまりは、それは国守としてどうしても対処しなければいけない重要な課題であったのです。

万葉の草花 カワラナデシコ

そして、その事を念頭に置けば、これに続く後段の意味もはっきりと見えてきます。

所以(かれ)、三綱を指示し、更に五教を開き、遺(おく)るに歌をもちてして、其の惑(まどひ)を反さしむ。歌に曰はく

ここでの「三綱」とは「君臣、親子、夫婦」の間で果たすべき責任のことであり、「五教」とは儒教でいうところの人の守るべき五つの教えの事であり、例えば「春秋左氏伝」には「五教を四方に布かしむ。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝にし、内平らかに外成ぐ。」と記されています。
つまりは、それらは当時の教養人にとってがすぐに理解できる内容であり、「戸令」においても国守の義務として百姓に教え諭すことが義務として記されています。
ですから筑前国守としての憶良にしてみれば「三綱を指示し、更に五教を開き」というのはこの「序」の中に入れ込まなければいけない必須事項だったのですが、憶良の本心はそれに続く「遺るに歌をもちてして、其の惑を反さしむ。」だったことは明らかです。

憶良は倍俗先生等と称して父母や妻子を養う責務も放棄した人の心を「惑へる心」と規定し、それを自らの「歌」によってかえさせてやると意気込んでいるのです。
意味的に分かち書きをすると以下のような感じになるのでしょうか。

惑は人あり。父母を敬ふことを知りて、侍養(じよう)を忘れ、妻子(めこ)を顧みずして、脱履(だつしつ)よりも軽(かろ)みす。

自ら倍俗(ばいぞく)先生と称ふ。

意気(こころいき)は青雲の上に揚(あが)るといえども、身体は猶塵俗の中に在り。
未だ修行得道の聖(ひじり)を験(あらわ)さず。

蓋(けだ)しこれ山沢(さんたく)に亡命する民ならむ。

所以(かれ)、三綱を指示し、更に五教を開き、遺(おく)るに歌をもちてして、其の惑(まどひ)を反さしむ。歌に曰はく

ただし、井上先生も指摘されていましたが、まさか本気で歌によってそう言う人の心を変えられるとは思っていなかったでしょうから、これもまた憶良独特の文学的表現の追求だったと捉えるべきものかもしれません。
何故ならば、「惑へる心」をかえさせるとして送った歌のスタイルが非常に凝ったものであり、それがその後にも引き継がれていくものであるからです。(続く)