万葉集を読む(7)~山上憶良「惑へる情を反さしむるの歌 巻五 800~801番」(1)

7月の万葉集を読むは「惑へる情(こころ)を反(かえ)さしむる歌」でした。
とんでもない、それこそ尋常ではない熱さの日だったのですが、会場はいつも通りいっぱいでした。

私も、この前々日から京都に宿泊をして祇園祭を楽しんでいましたので、そのまま京都から明日香に入って講座に参加しました。
今年の祇園祭もまた尋常ではない熱さの中で行われましたので、宵山と山鉾巡行を楽しむだけでもとんでもないエネルギーを消費しました。(^^;
ただし、山鉾巡行に関しては「辻回し観覧プレミアム席」を入手できましたので、それも当日行ってみると最前列の特等席だったので、美術品のような山と鉾をたっぷりと楽しむことが出来ましたし、祇園祭の雰囲気も楽しむことも出来ました。

嘉摩郡役所跡近くにある金丸邸内の鴨生憶良苑

今回の講座は万葉集巻五の800番「惑へる情を反さしむるの歌一首并せて序」と801番の「反歌」一首でした。
講師は万葉文化館の主任研究員、井上さやか先生でした。

今回取り上げた作品に関しては作者は記されてはいないのですが、これに続く作品とあわせて一般的には山上憶良の「嘉摩(かま)三部作」と呼ばれていますので、憶良の作品と見て間違いはないようです。

まずは作品を紹介しておきます。

惑は人あり。父母を敬ふことを知りて、侍養(じよう)を忘れ、妻子(めこ)を顧みずして、脱履(だつしつ)よりも軽(かろ)みす。自ら倍俗(ばいぞく)先生と称ふ。意気(こころいき)は青雲の上に揚(あが)るといえども、身体は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道の聖(ひじり)を験(あらわ)さず。蓋(けだ)しこれ山沢(さんたく)に亡命する民ならむ。所以(かれ)、三綱を指示し、更に五教を開き、遺(おく)るに歌をもちてして、其の惑(まどひ)を反さしむ。歌に曰はく

これが「序」にあたります。
それに続く長歌は以下の通りです。

父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞ道理(ことわり) もち鳥の かからはしもよ 行くへ知らねば 穿沓(うげぐつ)を 脱ぎ棄(つ)る如く 踏み脱ぎて 行くちふ人は 岩木より 生(な)り出し人か 汝が名告(の)らさね 天へいかば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏(むかぶ)す極(きはみ) 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極(きはみ) 聞こし食(お)す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきままに 然(しか)にはあらじか

「脱履」や「谷蟆」みたいな難しい言葉もあって分かりづらいところもあるのですが、前回の「日本挽歌」よりは意味はとりやすいように思われました。
そして、最後の締めとしての反歌です。

久かたの天道(あまぢ)は遠しなほなほに家に帰りて業(なり)を為(し)まさに

「嘉摩郡三部作」~憶良が筑前国守として赴任したときに作られた歌

山上憶良は、神亀3年(726)から天平3年(731)までの6年間にわたって筑前国守を務めました。その在任中の神亀5年(728)7月21日に、巡察のために嘉摩郡役所に立ち寄った時に作られた歌が「嘉摩三部作」として知られています。
この「惑へる情を反さしむるの歌」はその「嘉摩三部作」の一篇です。

今回の講座を聴いて、つくづく感心したのは山上憶良という歌人の広範囲にわたる漢籍の知識と、それをよりどころとして新しい表現を生み出そうとする文学者としての志の高さです。

万葉集というのは、ごく普通の庶民が日々の暮らしの中からわき上がってきた感情を骨太く、そして率直に読み上げたものだと思っていました。
確かに、詠み人知らずと言われる歌の中にはその様な歌も多いのでしょうが、それとは別に、教養ある貴族階級の中にはより洗練された、そしてより新しさのある「文学的表現」を求める意識があったというのは、私の中では新しい発見でした。そして、ともすれば「社会派の歌人」のように捉えられることの多い山上憶良という歌人のバックボーンには、そう言う見方とはずれを感じるような洗練された文学への意識があったことがこの「惑へる情を反さしむるの歌」からも感じとることが出来ました。

コンセンサスのある言語の選択

言葉というものは、その人ならではの表現と内容を持ったものとして立ちあらわれれば、その様な言葉を生み出した人はそれを持って傑出した文学者と言ってもいいでしょう。
それは紫式部の「あわれ」や、清少納言の「おかし」のようなものです。

彼女たちは、その文学的営為を通じて、日本文化の根底を形づくるような概念をそれらの言葉に込めることに成功しました。
しかし、それはもうとんでもないことであって、そんな事を凡が目指したところでその殆どは独りよがりか、良くても一時の徒花のように消えていってしまうものです。

ですから、大部分の文学者というものはコンセンサスのある言葉を精緻に積み上げていくのです。そして、そう言う言葉が引き出しにたくさん入っていれば入っているほど豊かな文学的表現が可能となるのでしょう。
今回の井上先生の講座では、何気なく憶良が使っている言葉の背景を非常に分かりやすく用例も引用しながら解説をしていただきました。

まずは「序」から見ていきます。

問題は「惑へる情」とは何を意味するかです。
憶良はこの歌によって「惑へる情」をかえようというのですから、「惑へる情」の実態を正確に把握することが必要です。

ですから、憶良はそれを読み手と共有するために誤った理解が生じないように正確で緻密な言語選択を行っているというのが井上先生のお話の肝の一つでした。

まずは、「父母を敬ふことを知りて、侍養(じよう)を忘れ」の中で使われている「侍養」という言葉です。
これはザックリと読んでしまえば、「父母を敬うことは知っていながら孝行をつくすことは忘れている」みたいな意味と捉えられます。

しかし、「侍養」という言葉の背景には「職員令」や「戸令」という律令の中で使われている事を見逃していけないようなのです。
「職員令」の中では国守の責務として「百姓を字養(文字は違うが意味は同じだそうです)せむこと」と定められているそうです。ここでの「字養」とは明らかに「国守たるものは百姓の生活が成り立つように成り立つように責任を持ちなさい」という意味を持ちます。

つまり、「侍養」という言葉には漠然と孝行をつくすというだけでなく、「戸主として親や妻子の生活が成り立つように責任を持つ」という、もっと具体的で現実的な意味を持っているのです。

また、「戸令」では「孤独、貧窮、労疾の、自存するに能わずは近親をして収養せしめよ。もし近親なくは、坊里に付けて安恤せしめよ」と定めているのです。
つまりは、孤独や貧窮などの理由で生活が成り立たなくなったものがいれば、まずは近親が面倒をみなさい、それが不可能なときに始めて公的支援を与えなさいとしているのです。話は横道にそれますが、生活保護を申請したときに「面倒を見てくれる近親者はいませんか」とたずねるのは、社会保障が奈良時代レベルに逆戻りすることを意味しているのかも知れません。

ですから、「父母を敬ふことを知りて、侍養(じよう)を忘れ」とは「父母を敬うことは知っていながら、その生活が成り立つように果たさなければいけない責任を忘れている」となるのです。
ですから、「侍養」という言葉をただ端に「孝行をつくす」と理解したのでは全体の意味合いを大きく見誤ってしまうのです。(続く)