万葉集を読む(13)~山上憶良「子らを思(しの)へる歌 巻五 802~803番歌」(2)

「序」を受けた「長歌」もまた万葉集の長歌の中では有名なものの一つでしょう。

瓜食めば 子ども思ほゆ
栗食めば まして偲(しの)はゆ
何処(いずく)より 来たりしものそ
眼交(まなかい)に もとなかかりて 安眠し寝(な)さぬ

九州太宰府にある憶良の歌碑

「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ」という下りはとても有名です。
意味も簡単にとることが出来ます。

「瓜を食べれば子供のことが思われる、栗を食べればましてしのばれる」と言うような感じでしょうか。
ただし、吉原先生も指摘されていたのですが、では、ここで何故に「瓜と栗」なんだという疑問が湧きます。

言葉をかえれば、絶対的な愛の対象としての「わが子への愛」を導き出すのに、何故に「瓜と栗」なんだというわけです。
それ故に、ここで憶良が「瓜と栗」を持ち出した理由については昔から様々な説が出されていることが吉原先生より紹介がありました。

その中で、有力な説とされているのが、陶淵明の「責子」という漢詩が念頭にあったのではないかという説です。
この陶淵明の「責子」というのが実に面白い詩なので全体を紹介しておきます。
責子

白髮被兩鬢 肌膚不復實
雖有五男兒 總不好紙筆
阿舒已二八 懶惰故無匹
阿宣行志學 而不好文術
雍端年十三 不識六與七
通子垂九齡 但覓梨與栗
天運苟如此 且進杯中物

読み下し文にするとこんな感じでしょうか。

子を責む

白髮兩鬢に被り 肌膚(きふ)復た実(ゆたか)ならず
五男兒有りと雖(いえど)も 総べて紙筆を好まず
阿舒(あじょ)已に二八、懶惰(らんだ)故(まこと)に匹(たぐい)無し
阿宣(あせん)行く行く志学、而も文術を愛せず
雍(よう)と端(たん)年十三、六と七とを識らず
通子(つうし)九齢に垂(なんな)んとす、但だ梨と栗とを覓(もと)む
天運苟(いやし)くも此くの如し、且(しばら)く杯中の物を進めん

出来の悪い5人の男児を嘆く陶淵明の詩なのですが、そのぼやきぶりが実に見事なのです。
とりわけ、「雍と端年十三、六と七とを識らず」、雍と端は年が十三にもなるのに、未だに六と七の区別もつかない・・・とか、「通子九齢に垂んとす、但だ梨と栗とを覓む」、通子は9歳になろうというのにただ梨と瓜をむさぼり食っているだけだなんてのはもう笑ってしまいます。

通子垂九齡 但覓梨與栗

そして、憶良はこの陶淵明の詩の「通子九齢に垂んとす、但だ梨と栗とを覓む」から着想を得て「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ」を引き出したというのです。

この陶淵明の「但だ梨と栗とを覓む」の背景には、孔子の子孫である孔融が4歳にして、5人の兄たちと梨を食べるときに必ず小さいものから取ったという故事が踏まえられているそうです。
そして、当時の中国では飲食の時に目上の者に先を譲るのは8歳で教えられる礼法として定着していたらしいのですが、それを「通子九齢に垂んとす」で対比させたわけです。

ただし、憶良の時代には陶淵明の詩は日本には伝わっていなかったという反論はあるようです。ただし、その異論への反論として、憶良は遣唐使の一員として中国に渡っているので、その時に陶淵明の詩を読んでいる可能性は非常に高いことが指摘されています。

ですから、この「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ」と言う下りは、陶淵明の「責子」を念頭に置いて読めば「馬鹿な子ほど可愛い」というニュアンス、もしくはどれほど馬鹿でも我が子は可愛いじゃないですかというニュアンスが感じ取れるのです。

しかし、そうだとすれば、陶淵明は「梨と栗」であるのが、どうして憶良は「瓜と栗」に改変したのかという疑問はおこります。
これへの回答として、吉原先生は、当時の日本において梨というのは子供が好んで食べるようなものではなかったのではないかという考えを示されていました。

古い文献によると、中国の梨は甘くて少し酸味のある果物として子供にも好まれていたのですが、日本の梨は果物ではなくて「菜」に分類されていたようなのです。つまりは、日本の梨は甘みもなくてかたかったようで、そのために蒸したり漬け物にして食するのが一般的で、それ故に子供が好んで食べるようなものではなかったというのです。
それに対して、瓜は遺跡を発掘すると最も多く発掘される食べ物であり、おそらくは子供が好んで食べるものであったらしいので、梨を瓜に置き換えたのだろうというのです。

そう考えれば、ここで梨を瓜に置き換えたとしても意味するところには大きな影響は与えないのです。

しかし、そういう風に瓜と栗を媒介として引き出された我が子への愛に、続く部分で軽い疑問と戸惑いを投げかけているのが興味をひきます。

何処(いずく)より 来たりしものそ 眼交(まなかい)に もとなかかりて 安眠し寝(な)さぬ

その様な愛をもたらす子供というものはというのはいったいどこから来るものなのだろうか、と疑問を投げかけているのです。
これは、おそらくは妻子を棄てて山沢に亡命した、自称倍俗先生を念頭においた投げかけだったのではないかと思われます。つまりは、あまりにも一方的に我が子への愛を語りかけても反発を招くだけなので、おそらくはここでワンクッションを置いて、相手に下駄を預けたのでしょう。

そして、だめ押しとして、そう言うことを考えていると「眼交に もとなかかりて 安眠し寝さぬ」、そう言う疑問が目の先にちらついて安眠させませんよねと投げかけるのです。
ですから、ここでも憶良が得意とする問答の形を取っているのかも知れません。(吉沢先生はその様には指摘していませんでしたので、これはあくまでも私見です。・・・続く)