万葉集を読む(24)~大伴旅人「龍の馬も今も得てしか 巻五 806~809番歌」(4)

書簡文と思われる「序」に賦された歌が以下の2首であり、前回はその中の「龍の馬」に焦点を当てて考えてみました。

歌詞両首 大宰帥大伴卿
龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来む為
現(うつつ)には逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢(いめ)にを継ぎて見えこそ

今回は第2首目の「夢(いめ)」について考えてみたいと思います。

「現(うつつ)には逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢(いめ)にを継ぎて見えこそ」というのは、意味をとるのはそれほど難しくはありません。

「現(うつつ)には逢ふよしもなし」は現実には逢う術もありません、と言う意味です。
それは、「多都能馬」と表記した「天翔る龍の馬」が現実には存在しない以上は仕方のないことです。ですから、それは後段の「ぬばたまの夜の夢(いめ)にを継ぎて見えこそ」につながるのです。

檜扇(ひおうぎ)の実

「ぬばたま」は「夜」にかかる枕詞であり、雰囲気としては「闇夜」というような感じになります。まあ、万葉の時代は今みたいに夜は明るくなかったので「夜」と言えば「闇夜」だったはずです。
そんな闇夜の夢として絶えずその姿を見て欲しいものだというのです。
いささか古い言い回しをすればせめて「夢で逢いましょう」というわけです。

さて、問題はこの「夢」です。
これは「ゆめ」ではなくて「いめ」と読みます。万葉仮名では「伊昧」と表記されています。

これが何故に問題なのかと言えば、万葉の時代の「夢(いめ)」と、今の時代の「夢(ゆめ)」では根本的な違いがあるからです。
その違いを一言で言えば「夢(ゆめ)」は実際は逢えないことを前提としているのに対して、「夢(いめ)」は逢えることを前提としているのです。

それは中国文化においても同様で「文選」の「別賦」にも次のような一節があるのです。

知離夢之躑躅 意別魂之飛揚
離夢(りむ)の躑躅(てきちゃく)たるを知り、別魂(べっこん)の飛揚(ひしょう)するを意(おも)う

「離夢」は遠く離れた人の夢のことで「躑躅」は進みがたい様子の事です。
ですから、「離夢(りむ)の躑躅(てきちゃく)たるを知り」とは、「遠く離れた人の夢が行き場を見失って悩んでいるのが見える」というような意味となり、「別魂(べっこん)の飛揚(ひしょう)するを意(おも)う」とは「別れた人の魂が飛び来たったかと思う」というのです。

つまり、「夢」というのは別れた人の魂が跳んできて「実際に逢っている」と思われたのです。そして、この思想はそのまま日本にも適用されたのです。
ただし、それが中国から輸入されたものなのか、それとも東アジア圏において広く共有されていた概念なのかは分かりません。
しかし、夢(いめ)と言うものをその様に重く捉えるというのは日本の古代に相応しい心の有り様のようには思われます。

古代の「夢(いめ)」とは、別れた人への「思いの深さ」の真実性をかけた行為であり、夢(いめ)に現れなければ、それはその人は既に自分のことを忘れてしまっていることを意味したのです。ですから、その「夢の重み」を理解していなければ「ぬばたまの夜の夢(いめ)にを継ぎて見えこそ」の「継ぎて見えこそ(絶えず見てほしい)」の重さを見逃してしまうのです。

そう言う「夢(いめ)」の有り様をもっとも明瞭に歌ったのが家持の次の一首でしょう。

夢(いめ)の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば

この「夢」を「ゆめ」と読んでしまっては駄目なことは言うまでもありません。

さて、この2首に対する返歌は以下のようになっています。

龍(たつ)の馬(ま)を吾(あ)れは求めむ青丹(あをに)よし奈良の都に来む人の為(たに)
直(ただ)に逢はず在(あ)らくも多く敷栲(しきたへ)の枕離(さ)らずて夢にし見えむ

この2首は井上先生も指摘されていたように、旅人のものと思われる2首をそのままストーレートに返しただけのもので、この時代の返歌に求められた「ひねり」のようなものが皆無です。
とりわけ、「龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来む為」に対する「龍(たつ)の馬(ま)を吾(あ)れは求めむ青丹(あをに)よし奈良の都に来む人の為(たに)」はそのまんま裏返しただけという感じです。

そこには、「龍の馬」を「多都能馬」とまで表記して天翔たイメージへの返歌とすればあまりにもなおざりなイメージがつきまといます。

それは2首目の「直(ただ)に逢はず在(あ)らくも多く敷栲(しきたへ)の枕離(さ)らずて夢にし見えむ<」にも言えます。
「現(うつつ)には逢ふよしもなし」に対して「直(ただ)に逢はず在(あ)らくも多く(直接会えないことが長く続いていますから)」と受けるだけですし、「ぬばたまの夜の夢(いめ)にを継ぎて見えこそ」に対しても「敷栲(しきたへ)の枕離(さ)らずて夢にし見えむ」と返すだけです。

「敷栲(しきたへ)」は「枕」にかかる枕詞で、「敷栲(しきたへ)の枕離(さ)らずて」で「枕辺ではいつも」と言うような意味になります。
旅人が「夢で私の姿を見てほしい」と言ったのに対して、「絶えずあなたの姿を枕辺では見ることでしょう」と返すだけなのです。

この返歌の稚拙とも思えるほどのストレートさもまた、この一連の歌の「謎」の一つだと言われています。
ですから、この書簡文のような「序」と2首、それに対する返歌2首をどのように理解するのかはなかなかに難しいのです。最初はこれは旅人による「フィクションにもとづいた文学的営為」かとも思ったのですが、そうだとするならばこの返歌2首の素っ気なさは納得がいきません。
また、書簡文自体もこの時代の形式から見れば非常に簡略なもので、旅人ほどの教養人ならばもう少し違ったスタイルになりそうなものなのです。

とすれば、これはもしかしたら、身近にいる初心者のためのお手本のようなものとして書かれた可能性はあるかもしれません。
こんなに凝った歌をもらっても、こういうふうに裏返すだけで取りあえずは「返歌」になります、みたいな手本です。書簡文はそう言う場面設定のために必要最低限だけ記したものと思えば、その簡略さも納得がいきます。

もっとも、ここに書かれている以上のことは何も分からないのですから、あまりに想像をたくましくするのはよくないのかもしれません。(終わり)