万葉集を読む(23)~大伴旅人「龍の馬も今も得てしか 巻五 806~809番歌」(3)

書簡文と思われる「序」に賦された歌が以下の2首です。

歌詞両首 大宰帥大伴卿
龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来む為
現(うつつ)には逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢(いめ)にを継ぎて見えこそ

ここで問題となるのが「龍(たつ)の馬(ま)」です。
これも雰囲気からすれば「龍の馬」ですから、とても立派な馬のことを言っているのだろうという見当はつきます。しかし、こういう事は、いい加減な雰囲気で解釈をして「分かった」様な気になってしまうと大切なことを取りこぼしてしまいます。

「玉台新緑」の「襄陽白銅歌」に「龍馬紫金鞍 翠毦白玉羈 照曜雙闕下 知是襄陽兒」という一節があります。

龍馬紫金の鞍 翠毦白玉の羈 照曜(せうよう)す雙闕(きょうけつ)下 知る是れ襄陽の兒(じ)なるを

戦いに勝った襄陽の若武者が凱旋する場面を歌ったものなのですが、そこに「紫金の鞍 」をおいた「龍馬」が登場します。
この「玉台新緑」は「文選」ほどにはポピュラーではないのですが、最近の研究では万葉集にも多く引用されていることが分かってきています。ですから、奈良時代の教養人ならば、歌の中に「龍の馬」と記されていれば、すぐに漢籍に登場する「竜馬」をイメージすることが出来たのです。
そして、中国における「龍馬」とは、ただの「駿馬」と言うだけでなく、大きさが8尺をこえる「国の宝」とされるような特別な馬のことを表す言葉であった事もすぐに了解できたのです。

駿馬

井上先生によれば「文選」の「別賦(わかれのふ)」の中にも「故別雖一緒 事乃萬族 至若龍馬銀鞍 朱軒繍軸」という一節があるそうです。

故に別雖は一緒なりといえども 事は乃(すなわ)ち萬族なり 龍馬銀鞍(りゅうばぎんあん) 朱軒繍軸(しゅけんしちょう)が若(ごと)きに至りては

同じ別れと言ってもそこには多くの種類があるとして、龍馬に銀の鞍を置き、主で塗り刺繍で飾った車に乗って旅立っていく貴人もいると続くのですが、ここでも貴人のための特別な馬としての「龍馬」が登場します。
ですから、ここで旅人が「龍の馬も今も得てしか」と詠んだときの「龍の馬」にはその様な特別な意味が込められているのです。

歌の意味は非常に分かりやすいです。
その様な特別な「龍の馬」を今は欲しいものだと旅人は歌うのですが、何故ほしいのかと言えば「あおによし奈良の都に行きて来む為」、つまりは奈良の都に行って帰ってくる為にほしいというのです。

しかしながら、いくら「歌」であっても一つの疑問が浮かび上がります。
それは、いかに優れた「龍の馬」であっても、そんなに簡単に太宰府と奈良を往復できるのかという疑問です。それが、いくら「歌」の中のファンタジーだったとしても、いや、それを一種の「ファンタジー」とするならばあまり上質なファンタジーとは言いがたいのです。
何故ならば、「龍馬」というものには漢籍に裏付けられた確固たるイメージがあるからです。その確固たるイメージを突き抜けて、軽々と太宰府と奈良の都を往復する馬のイメージを羽ばたかすことは不可能なのです。

天翔ける馬

言葉をかえれば、この「龍馬」は空を翔てくれないと、「あおによし奈良の都に生きて来む為」という思いを実現することは出来ないのです。
つまりは、「龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来む為」という歌を現代語に訳したときに、「天空を翔る龍の馬も今は欲しいものだ。美しい奈良の都に行って帰る為に」となるような工夫が必要なのです。

しかしながら、「龍馬」には確固たるイメージが中国文化によって与えられていますから、そんな事はどう考えても不可能なように思われるのですが、その不可能を可能としたのが「万葉仮名」という日本人による発明でした。
よく知られているように、万葉集は万葉仮名で書かれていると言われるのですが、それは正確な表現ではありません。

既に見てきたように、そしてここでの書簡文のように「漢文」で表記されている部分は非常に多いのです。万葉集が編纂された奈良時代というのは「漢文」の時代でしたから、それは当然のことだと言えます。
ですから、歌の中にも漢文表記を使ったものがたくさん存在します。

ここからは私見です。井上先生は時間の関係もあってそこまでは踏み込まれませんでした。
おそらく、漢文を表記に使っていては表現しきれない日本人独特の感性があったはずなのです。そして、その感性をどうすれば表現できるのかと言うことは万葉の歌人達にとっては切実な課題であったはずなのです。

そして、発明されたのが「万葉仮名」なのです。
言うまでもなく漢字は「表意文字」です。漢字には音だけでなく意味もついて回ります。
万葉仮名はその「意味」の部分を切り捨てて、その「音」だけを使って日本語を表記しようとしたものでした。そして、これがやがては「仮名文字」の発明に繋がることは言うまでもありません。

日本に伝わってきた漢字には音訓2種類の読みがあったのですが、その内の「音」を採用した仮名は「音仮名」、「訓」を採用したものは「訓仮名」と現在はよんでいます。
例えば「安」「阿」などは「あ」をあらわす「音仮名」であり、「吾」「足」などは「あ」をあらわす「訓仮名」なのです。

この万葉仮名は長く山部赤人の発明と言われてきたのですが、難波宮跡 から「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」と万葉仮名で記された木簡が発見されたことで時代はさらに遡ることが確認されています。おそらく、それは誰か一人の発明ではなくて、そう言う官人達の間でいつしか広まった文書の表記法だったのでしょう。

それでは、旅人は「龍の馬も今も得てしか」をどのように表記したのでしょうか。

多都能馬母 伊麻勿愛弖之可

万葉集と言えば万葉仮名と思われるのですが、意外なことに、日本語による「歌」であっても漢文表記されているものも多いのです。
ここでも、「龍馬」というのは漢籍に典拠がありますから「龍之馬母」のように表記しても問題がないというか、そうした方が漢文の教養がある人にとっては理解がしやすいのです。
しかし、そんな事は百も承知のはずの旅人であるにもかかわらず、彼は敢えて「多都能馬母」と表記したのです。

教養ある万葉人は「多都能馬母」という表記を見たときに。頭の中でそれを「龍の馬も」に変換をして意味は漢籍に典拠をもとしてとるのですが、それに続く「あおによし奈良の都に生きて来む為」に続くことで、「多都能馬」は「龍馬」をこえる特別なイメージが付与されていることに気づくのです。
さらに注目すべきは、旅人はここではほぼ日本語の一音に漢字一文字をあてがっているのです。

多都能馬母 伊麻勿愛弖之可 阿遠尓与志 奈良乃美夜古尓 由吉帝己牟丹米
たつのまも いまもえてしか あおによし ならのみやこに いきてこむため

ちなみに、万葉集に続く勅撰和歌集は「古今和歌集」なのですが、それは全て「ひらがな」で表記されています。
そう考えれば、ひらがなを発明することによって手に入れた日本独特の表記の源流がこのあたりにあることは明らかなのです。

さらに、万葉学者というのは偉いもので、そう言う万葉仮名がどのような使われかたをしているのかを全て調べ上げているようで、この歌の中に使われている「愛→え」「勿→も」「帝→て」は旅人の歌でしか使われていない万葉仮名だそうです。
その様なオリジナリティのある万葉仮名を使うことが当時の万葉人に対してどのような効果があったのかは現代人の感性からは推し量ることは難しいのですが、それでも、旅人が特別な意気込みをもって新しい表現方法を模索していたことは明らかです。(続く)