万葉集を読む(28)~大伴旅人「日本琴の歌 巻五 810~812番歌」(4)

長くなってきましたので、もう一度旅人の送り状を確認しておきます。

大伴淡等謹(つつしみ)みて状(もう)す
梧桐の日本琴(やまとこと)一面 對馬の結石(ゆふし)山の孫枝(ひこえ)なり

此の琴、夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて曰はく、

「余(われ)、根を遥嶋(えうたう)の崇(たか)き蠻(みね)に託(つ)け、韓(から)を九陽(くやう)の休(よ)き光に晞(ほ)す。
長く烟霞を帶びて山川の阿(くま)に逍遥し、遠く風波を望みて鴈木(がんぼく)の間に出入す。
唯(ただ)百年の後に、空しく溝壑(こうかく)に朽ちむことを恐るるのみ。
偶(たまため)良匠に遭ひて、散(けず)られて小琴と為る。
質の麁(あら)く音の少(とも)しきを顧みず、恒(つね)に君子(うまひと)の左琴(さきん)を希(ねが)ふ」

といへり。
即ち歌ひて曰はく、

如何(いか)にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)吾(わ)が枕(まくら)かむ

僕詩詠(われうた)に報(こた)へて曰はく

言問(ことと)はぬ樹(き)にはありともうるはしき君が手馴(たな)れの琴にしあるべし

琴の娘子(をとめ)答(こた)へて曰はく

「敬(つつし)みて徳音(とくいん)を奉(うけたま)はりぬ。幸甚(かうじん)幸甚」といへり。
片時(しまらく)にして覚(おどろ)き、すなはち夢(いめ)の言(こと)に感じ、慨然として止黙(もだ)をるを得ず。
故公使(かれおほやけづかひ)に附けて、聊(いささ)か進御(たてまつ)る。〔謹みて状(まを)す。不具〕

天平元年十月七日 使に附けて進上(たてまつ)る。
謹通 中衛高明閣下(ちうゑいかうめいかふか) 謹空

読み解くのが難しいのは、乙女と化した日本琴が語る場面です。そこでは、漢籍に対する知識を網羅して贈り物である日本琴の物語を作りあげています。
それと比べると、後段の部分はそう言うややこしさはほとんどありません。

即ち歌ひて曰はく、
如何(いか)にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)吾(わ)が枕(まくら)かむ

大阪延命寺の石仏

これは、旅人や憶良がよく用いた「長歌」と「反歌」の関係に似ていると言えます。
日本琴が乙女となって旅人の夢の中で語った内容が「長歌」のようなものだとするならば、これは明らかにそれをまとめた「反歌」のような役割をはたしています。

「如何(いか)にあらむ日の時にか」とは「いつの日にか」という意味です。
「声知らむ人」とは中国の故事に由来する言葉のようで、「私の音色を理解してくれる人」と言う意味になります。

乙女と化した日本琴は、奥深い山の上で俗世から離れて育ってきた桐の木だった私が、よき職人の手によって日本琴となった以上は、いつの日にか私の音色を分かってくれる人の膝の上で枕したいと歌ったのです。

そして、その歌に旅人も夢の中で次のように答えます。

言問(ことと)はぬ樹(き)にはありともうるはしき君が手馴(たな)れの琴にしあるべし

吉原先生は、この旅人の歌に少しばかりの疑問を呈されていました。
それは、乙女となって夢の中で語りかけている日本琴に対して「言問はぬ樹」と言うのは失礼ではないかというものです。

確かに、彼女は随分とおしゃべりです。
さらには漢籍にも通じているようで、自分の出自に関しては随分と饒舌なのです。

にもかかわらず、そう言う乙女に対して「言問はぬ樹」はないだろうというのです。

確かに、この言葉のやり取りだけを見れば、それは彼女に対して随分と失礼な物言いと言うことになるのかもしれません。
しかし、この手紙のやり取りの背景に長屋王の変などをめぐる政治的な思惑が隠れているとするならば、この「言問はぬ樹」とは旅人自身のことを比喩的に表現したものという見方も可能かもしれません。

大原三千院の石仏

ただし、そう言う「手紙の意味」については最後に考えたいと思いますので、取りあえずはここではそれを指摘するにとどめておきます。

「敬(つつし)みて徳音(とくいん)を奉(うけたま)はりぬ。幸甚(かうじん)幸甚」といへり。
片時(しまらく)にして覚(おどろ)き、すなはち夢(いめ)の言(こと)に感じ、慨然として止黙(もだ)をるを得ず。
故公使(かれおほやけづかひ)に附けて、聊(いささ)か進御(たてまつ)る。〔謹みて状(まを)す。不具

旅人は先の歌で乙女の願いに対して「うるはしき君」の「手馴れの琴」になることだろうと請け負います。この「うるはしき君」とは明らかに藤原房前の事を意味しているのですが、その様な立派な人物が愛用する琴になるだろうと保証してあげたのです。
そして、それを聞いた乙女もその言葉を承りました(敬みて徳音を奉はり)、幸せなことです(幸甚幸甚)と言って姿を消すのです。

ここでの「幸甚」という言葉は手紙などで使われる慣用句だとのことです。

そして、そこで旅人もはたと目覚めたものの、その乙女の言葉に感動して黙っていることは出来なかったので、公の使いにつけてこの日本琴を贈ります、と言う形でこの物語にまとまりをつけるのです。
実にもって見事な「送り状」です。

なお、最後の以下の部分は正式な手紙のおける定型文です。

天平元年十月七日 使に附けて進上(たてまつ)る。
謹通 中衛高明閣下(ちうゑいかうめいかふか) 謹空

「中衛高明閣下」とは言うまでもなく藤原房前のことです。
そして、この贈り物に対する房前の「礼状」もまた見事なものなです。(続く)