万葉集を読む(29)~大伴旅人「日本琴歌 巻五 810~812番歌」(5)

さて、それでは藤原房前の「礼状」を見ていきましょう。

跪(ひざまづ)きて芳音(ほうおん)を承り、嘉懽交(かくわんこもごも)深し。 及(すなは)ち、龍門(りゅうもん)の恩の、復蓬身(またほうしん)の上に厚きを知りぬ。 恋ひ望む殊念(しゆねん)、常の心に百倍せり。 謹みて白雲の什(うた)に和(こた)へて、野鄙(やひ)の歌を奉(たてまつ)る。 房前(ふささき)謹みて状(まを)す。 言問(ことと)はぬ木にもありともわが背子(せこ)が手馴(たな)れの御琴(みこと)地(つち)に置かめやも 謹通 尊門 記室 十一月八日 還る使の大監(だいげん)に附す。

房前は藤原不比等の4人兄弟の中では2番目に当たる人物で、後の藤原北家の祖となった人物です。
能力的にはこの4人兄弟の中では随一と言われるほどに優秀だったようなのですが、長男の武智麻呂を筆頭とする他の3人兄弟とはそりが合わず、結果としては政権の中枢から外された状態でこの世を去ります。(ただし、房前の政治的ポジションに関しては諸説あるようです)
その背景としては、藤原氏による政権掌握を狙った長屋王の変において一定の距離を取ったことが大きな原因と言われています。
この旅人と房前の間で交わされた書簡のやり取りはその長屋王の変の8ヶ月後ですから、すでに房前は新しく確立した藤原政権の中枢からは外されていた時期でした。
房前が他の三兄弟とともに長屋王の変に積極的に関与しなかったのは、それ以前に長屋王とのつながりがあったからだとも言われています。
そう言えば、房前も旅人も、その邸宅は佐保にあって、そして長屋王の別宅も同じ佐保にあったと考えられています。そして、その佐保にあった別宅は当時の教養人にとっては文化的サロンとも言える場所であり、そう言う機会を通して彼らはそれなりのつながりがあったと推測されます。

大阪延命寺の石仏

この長屋王との関係がこの書簡のやり取りの裏に何らかの政治的な意味があったのではないかと推測される一員となっているのです。
とは言え、取りあえずこの書簡文だけに絞って読み取っていきましょう。

跪(ひざまづ)きて芳音(ほうおん)を承り、嘉懽交(かくわんこもごも)深し。

これは礼状としてはほぼ定型に近い書き出しでしょうか。
「芳音」とは旅人からの書簡のことを持ち上げた表現であり、「嘉懽」は「嘉して」「喜ぶ」、つまりは、「あなたから素晴らしいお手紙をいただいてとても喜んでいますみ」たいな意味になるのでしょう。
さて、問題は次の一句です。
及(すなは)ち、龍門(りゅうもん)の恩の、復蓬身(またほうしん)の上に厚きを知りぬ。
さあ、分からないのが「龍門(りゅうもん)の恩」です。
この手の礼状というのは、送り状に込められた仕掛けを読み解いてそれに基づいた適切な内容を返さないと馬鹿にされます。
それは言ってみれば一種の「知的格闘技」です。

通常この「龍門の恩」は中国の故事にある「登竜門」から引用したものと考えられていました。
これは黄河の急流を上りきった鯉が龍になると言う言い伝えから、その急流のことを「龍門」と呼んだのです。そして、その言い伝えを踏まえて、「後漢書(ごかんじょ)」の「李膺(りよう)伝」に「膺、声名を以(もっ)て自ら高ぶる。士その容接を被る者あれば、名づけて登竜門となす」と言われた事から「登竜門」という言葉が生まれました。
李膺と言う人物はその高い名声の故になかなか合うこともかなわない存在だったのですが、その李膺が面会を許した人物は「あの李膺が才能を認めた」と言うことで、その後間違いなく出世しました。その事から、李膺に面会がかなうことを「登竜門」と呼んだのでした。
ですから、この房前の「龍門の恩」もそれを踏まえて、「高貴なる君の恩顧」と解されてきました。そして、「蓬身」とは自分を卑下して表現する言葉ですから、「旅人のように高貴なる人の恩顧が私ごとき卑しい身の上にも熱く注がれていることを知りました」のような意味だととらえられてきました。
おそらく、字句の解釈としては間違ってはいないのでしょう。
しかし、それでは旅人が送り状に忍ばせた仕掛けに対する返しにはなっていません。

旅人は「文選」の「琴賦」に散りばめられた表現を引用して贈り物とした琴の出自の素晴らしさを仄めかしているのですから、それへの返しでなければ「知的格闘技」としては負けだと言うことになります。そして、房前は旅人の書簡にその「琴賦」からの引用が散りばめられていることは一読しただけで理解できたはずなのです。
そこで、最近唱えられている別説は、この「龍門の恩」は中国の故事である「登竜門」からの引用ではなくて、李善と言う人が「琴賦」につけた注釈書からの引用ではないかというものです。
この李善による注釈書が旅人や房前が生きた時代に知られていたのかと言うことは疑問だったのですが、平城宮の発掘でこの注釈書のものと思われる木簡が発見されることで、その疑問点がクリアされたとのことです。

大阪延命寺の石仏

そして、その注釈書には「龍門とよばれる地域で取れる桐で作られた琴が最上のものとされている」と書かれているのです。
ですから、房前は旅人が「琴賦」からの引用で贈り物としての琴の出自を誇っていることを読み解いて、自らはその注釈書からの引用で、最上等の琴を贈ってもらってありがとうと返しているのです。
おそらく、当時の教養人のやり取りとしてはこの解釈の方が正しいのでしょう。
そして、そうであってこそ、お互いに「さすが!」と誉めあうことが出来たはずなのです。
もちろん、旅人が琴賦をもとに誇った「贈り物としての琴の出自」はフィクションですし、それに返した房前の「龍門の恩→龍門で取れた桐で作られた琴」もフィクションです。
しかし、そう言うことは何の問題もないのであって、大切なことはそう言う書簡の中に込められた知的な仕掛けをやり取りすることだったのです。
そして、房前は旅人から仕掛けられた挑戦に、この「龍門の恩」と言う一言で見事に切り返して見せたのでした。

恋ひ望む殊念(しゆねん)、常の心に百倍せり。 謹みて白雲の什(うた)に和(こた)へて、野鄙(やひ)の歌を奉(たてまつ)る。
これもまた、ほぼ定型かと思われます。
あなたを恋い待つ気持ちはいつにも増しています。はるか彼方からのあなたの歌に応えて、私も拙い歌を奉ります、のような意味になります。

大阪延命寺の石仏

言問(ことと)はぬ木にもありともわが背子(せこ)が手馴(たな)れの御琴(みこと)地(つち)に置かめやも

そして、このように、最後に歌を一つそえて締めくくるのもこういう時代の作法だったようです。
「言問はぬ木」というのも、旅人の歌の返しとして当然の書き出しだったことでしょう。

ただし、この歌は読みようによってはかなり意味深長です。
何故ならば、「言問はぬ木」が旅人のおかれた政治的立場の暗喩だとすれば、それを房前は共有していることを暗示しているとも受け取れるからです。
さらに、要注意なのは、贈られた琴のことを「手馴れの御琴」と言っていることです。
当然の事ながら、旅人が贈ったことは新品の琴だったはずで、間違ってもこの歌で読まれているような使い古した琴ではなかったはずです。にもかかわらず、房前が敢えてこのように表現した背景には、この二人の長いつきあいを暗示しているとも取れるのです。
そして、そう言う琴だからこそ、間違っても「地に置かめやも」と保証しているのです。
つまりは、この歌は読みようによっては、あなたが再び奈良の都に帰ってきたときには決して粗略な扱いはしませんよと言うことを仄めかしているとも読めるのです。

もちろん、この二人の手紙のやり取りにその様な政治的意味合いを持ち込むことに疑問を呈する人も多くて、吉原先生も、この歌は当時に教養人の間でかわされた書簡として素直に読むべきだろうと言われていました。
ただし、長屋王の変をめぐる一連の出来事は古代史の中では見逃すことが出来ない大きな事件ですし、その時に政権の中枢もしくはその周辺にいたであろう大伴旅人と藤原房前の手紙のやり取りというのはそれなりの意味を持たざるを得ませんので、最後にその辺りのことを少し考えてみたいと思います。(続く)