神功皇后の伝承についての考察も終わったので歌の方を読んでいきたいのですが、率直に言ってこの歌はそれほど面白い内容とは思えません。 また、研究としては憶良の作品と言うことで「確定」しているのですが、万葉集の中では名前を伏せているというのも面白くない要因となっているのかもしれません。つまりは歌人としてのイマジネーションを自由に羽ばたかせたのではなくて、何らかの「事情」の中で「歌」として仕上げる必要があったのではないかという気もするのです。 まずは、題詩が欠けているのでいきなり「序」から始まります。この「序」は読めばすぐに了解できることなのですが、神功皇后伝承の「鎮懐石」に関わる言い伝えを散文的に説明しています。
筑前国怡土郡深江(いとのこほりふかえ)の村子負(こふ)の原に、海に臨める丘の上に、二つの石あり。
「筑前国怡土郡深江」とは、現在の「福岡県糸島市二丈深江」に当たるようで、そこには「鎮懐石八幡宮」という神社があります。「糸島の海と夕日を眺望する子宝神社、桜名所」と題したサイトも用意されていて、「今から約1800年前の西暦200年(仲哀天皇9年)に神功皇后が安全無事な出産を祈願された『鎮懐石』を、伊都の深江村の原(丘)に納められたことが起源」ですという神社の由緒なども紹介されています。 こういう由緒というのは後付けのことが多いのですが、この八幡宮からの景観が「海に臨める丘の上」という記述とピッタリと一致するので、憶良が「二つの石あり」とした場所はこの八幡宮が立っている丘の上と考えても間違いはないようです。
大きなるは長さ一尺二寸六分、囲(めぐり)一尺八寸六分、重さ十八斤(こん)五両、少(すこ)しきは長さ一尺一寸、囲一尺八寸、重さ十六斤十両
石の寸法と重さについての叙述がやけに詳しいです。そして、大谷先生によれば、風土記などで紹介されている「鎮懐石」の大きさとも若干の違いがあるようなので、憶良がここで記した「鎮懐石」のサイズは実測に基づく可能性があります。 神功皇后の鎮懐石に関する伝承は全くのフィクションなのですが、この詳細な数字の紹介はそのフィクション性との間に違和感を感じさせます。この違和感を解消するもっとも妥当な見方は、何らかの来歴を持つ二つの石がこの地に祀られていたということです。 つまりは、国守として任国の巡視を行っているときに、「子負(こふ)の原」で二つの石が祀られていることを発見したか、もしくは耳にしたのでしょう。そして、その二つの石を見た(耳にした)ときに古事記や日本書紀で語られ始めた神功皇后伝承の「鎮懐石」が憶良の中で結びついた可能性が指摘できるのです。 さらに穿った見方をすれば、そこで発見した二つの石を報告したときに、時の政権の正当性を証明するために編纂されていた記紀の記述を補強するものとして「作品化」することを命じられた可能性も考えられます。もしそうだとすれば、この作品に憶良が自らの名前を記さなかった事も、そして、歌としても憶良らしくもない作品になっていることも納得がいきます。
並皆(とも)に楕円にして、状(かたち)は鶏子(とりのこ)の如し。その美好(うるは)しきは、論(あげつら)ふに勝(た)ふべからず。所謂(いはゆる)径尺の璧(たま)是なり。
「並皆に楕円にして、状は鶏子の如し」の「鶏子」とは鶏の卵のことを意味します。つまりは鶏の卵のような楕円の形をしているというのです。「楕円」という言葉は万葉仮名でも「堕圓」と記されているので、そんな昔からある言葉なのだと驚かされました。 そして、その二つの石の美しさをたたえる「その美好(うるは)しきは、論(あげつら)ふに勝(た)ふべからず。所謂(いはゆる)径尺の璧(たま)是なり」という言葉が続きます・ この「径尺の璧」とは字面だけ見れば「直系が一尺の玉」の事なのですが、中国においては価値あるものを比較するときの基準となるものが「径尺の璧」であったことを当時の教養人ならば容易に理解できたのです。つまりは「径尺の璧」といえば「もっとも価値ある貴重なもの」という意味合いを持つのです。 例えば、「淮南子」の「原道訓」では「聖人は尺の璧を尊ばずして、寸の陰を重んず」、つまりは「聖人というものはこの上もなく価値ある尺の璧よりも、ほんのわずかの時間の方を重んずるのだ」というような反語的な表現の中で使われています。つまりは価値を比較する基準としての「尺の璧」を持ち出す事で、時間というものが持っている価値を明らかにしようとしているのです。 ですから、ここで憶良が「所謂径尺の璧是なり」としているのは、それほどの価値ある美しさを持っていると言うことを言いたかったのです。
〔或(ある)は云はく、この二つの石は肥前国(ひのみちのくに)彼杵郡平敷(そのきのこほりひらしき)の石なり、占(うら)に当たりて取れりといふ〕
「肥前国彼杵郡平敷(具体的にどの地のことなのかは現在も不明)」という所から、それが何らかの占いに当たってここへ持ってこられたという石の来歴に関する別説を紹介しています。つまりは、憶良はこの石を神功皇后伝承に基づく「鎮懐石」だとしながらも、そうではないという現地での言い伝えも紹介しているのです。 この「占い」というのは具体的にはどういうものだったのかは一切記されていないので、この記述だけでは何のことかは分からないのですが、民俗学などの研究では北部九州を中心として石と妊娠に関する民間信仰が広く根付いていた可能性が指摘されています。実際、神功皇后の「鎮懐石」を納めているとされる「鎮懐石八幡宮」も現地では「安産・子授け」の神様として信仰を集めているのです。
深江(ふかえ)の駅家(うまや)を去ること二十許里(さとばかり)にして、路の頭(ほとり)に近く在り。公私の往来に、馬より下りて跪拝(きはい)せずといふことなし。
「鎮懐石」とされる二つの石が置かれている場所をさらに詳しく説明するために、「子負の原」は「深江の駅家を去ること二十許里」としています。ところが、最近になってこの「深江の駅家」と思われる遺跡が発掘され、そこは鎮懐石八幡宮のすぐ近くであることがわかったのです。つまりは、「子負の原=鎮懐石八幡宮」とするとこの「二十許里」と言う記述は明らかに間違っているのです。 そうすると、この記述から二つの可能性が浮かび上がります。一つは、二つの石が置かれていた「子負の原」は現在の鎮懐石八幡宮がある場所とは全く別の場所だったと言うこと、もう一つはこの「二十許里」という記述が間違っていることです。 ただし、「子負の原=鎮懐石八幡宮」というのはかなり確からしいので、「二十許里」が間違っている可能性が高いと思われます。おそらく、「二許里」が「二十許里」と間違われたのではないかというのが大谷先生の指摘でした。 しかし、そうなると憶良が実際に現地を訪ねてこの歌を作った可能性が後退してしまいます。言うまでもないことですが、「深江の駅家」とは官道の重要施設ですから、実際に現地におもむいていればそこからの距離を一桁も間違うと言うことはあり得ないからです。 そうなると、この「序」における記述は全て第三者からの伝聞に基づいたものと言うことになります。 おそらく古事記や日本書紀の記述の中でもっとも信頼性が薄いものの一つが「神功皇后伝承」ではなかったかと思われます。しかし、水野学説に基づくならばそれは応神王朝による崇神王朝の簒奪という「歴史的事実」を「正当な王朝の継承」として糊塗するためには必要不可欠なフィクションでした。そして、それは天智朝から天武朝への継承の正当性を主張するためにも重要な案件だったはずです。その様に考えると、これは全くの私見はあるのですが、その「神功皇后伝承」というフィクションをフィクションでなくすための「証拠」探しが強く求められていたのではないかと考えられます。 おそらく、石はあったのでしょう。ただし、それは妊娠に関わる民間信仰によって崇められていた石である可能性が高いのです。しかし、その様な「石」があるという情報を入手した旅人や憶良はそれを「神功皇后伝承」の「証拠」として採用することに決めたのです。
古老相伝へて曰はく「往者(いにしへ)息長足日女命(おきながたらしひめのみこと)、新羅(しらぎ)の国を征討(ことむ)けたまひし時に、この両(ふた)つの石を用(も)ちて、御袖(みそで)の中に挿着(さしはさ)みて、鎮懐(しづめ)と為(し)たまひき。〔実(まこと)はこれ御裳(みも)の中なり〕所以(かれ)、行く人、この石を敬拝す」といへり。及(すなは)ち歌を作りて曰はく
おそらくは安産や子授けに御利益がある石を、古老の言い伝えによって強引に結びつけたのです。「息長足日女命」とは言うまでもなく「神功皇后」のことです。
右の事を伝へるは、那珂(なかの)郡の伊知(いち)の郷蓑島(さとみのしま)の人、建部(たけべ)牛麿なり。
しかし、憶良という人は正直な人で、その言い伝えを語った古老を左注で「那珂郡の伊知の郷蓑島の人、建部牛麿なり」としているのです。「那珂郡の伊知の郷蓑島」とは現在の博多市内と考えられますから、鎮懐石がおかれていた「子負の原」からは遠く離れているのです。おそらくは、現地の人にその様な伝承と結びつける責任を負わせたくはなかったのでしょう。さらに、その古老が「御袖の中に挿着みて、鎮懐と為たまひき」と記憶間違いしているのも正直に記述した上で「実はこれ御裳の中なり」と、古事記や日本書紀の記述にそった形で添削しているのも、複雑な憶良の心の内が透けて見えてくるような気がします気がします。(続く)