万葉集を読む(33)~(山上憶良)「鎮懐石の歌 巻五 815~846番歌」(3)

イメージ戦略としての「歌」の役割

憶良の作品だと考えてほぼ間違いはないとされる「鎮懐石の歌」なのですが、おそらくはその狙いは「神功皇后伝承」というフィクションに「真実性」を持たせるためのイメージ戦略ではなかったのかと思われます。
神功皇后による新羅征伐とその途上における応神天皇の出生というストーリーは古事記、日本書紀編纂時に王朝の正当性を担保するために創作されたものと思われます。しかし、その様なフィクションをある日突然に示されても世の中の信憑性は得られません。そこで、そのフィクションを「事実」だとして広く喧伝するためのイメージ戦略が必要となり、その様なイメージ戦略の中でこの「鎮懐石の歌」も作られたのではないかと考えるのです。

このようなイメージ戦略として思い浮かぶ典型例が、巻二の巻頭に収録されている磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の4首です。

  1. 君が行き日(け)長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ
  2. かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根(いはね)し枕(ま)きて死なましものを
  3. ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに
  4. 秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)何処辺(いつへ)の方(かた)にわが恋ひ止まむ

「磐姫皇后」は仁徳天皇の皇后だったとされる女性です。仁徳天皇は5世紀前半に在位したと考えられますから、これがほんとうに磐姫皇后の歌だとすると、万葉集に収録されている歌の中ではもっとも古いものとなります。
しかし、5世紀前半と言えば古代歌謡の時代であり、このように整理された短歌形式が確立するのは後の時代になります。ですから、この4首は後の人による創作であることは間違いありません。
そうすると、後世の人が何故に磐姫皇后の名前を使ってこのような歌を読んだのかと言う疑問が浮かび上がってきます。

そこで考えられるのが、光明子の立后をめぐるイメージ戦略が背後にあったのではないかと言うことです。
光明子が聖武天皇の皇后となった背後には、基王の死によって引き起こされた皇位継承をめぐる権力闘争がありました。その辺りの事情については大伴旅人と藤原房前との間でかわされた「日本琴の歌」の中で詳しく考察しました。
光明子を皇后にする上で最大の障害となったのは彼女が「皇族」ではなかったことです。そして、長屋王がその事を理由として光明子が皇后となることに反対したのです。
そして、その「反対」を藤原氏は「長屋王の変」として処理せざるを得なかったのですが、その様な力ずくでの解決は長屋王を物理的に葬ることは出来ても、彼が主張した「正論」は残るのです。

そこで、藤原氏が見つけ出してきた反論の根拠が「磐姫皇后」だったのです。何故ならば、仁徳天皇の皇后だった「磐姫皇后」は葛城氏の出身であり皇族ではなかったからです。
つまりは、皇族ではなくても皇后となった前例があったというわけです。
ところが、これを根拠として持ち出すためには解決しなければならない不都合がありました。
それは、古事記や日本書紀が「磐姫皇后」の事をとんでもなく「嫉妬深い女性」として描き出しているのです。それも可愛げのある「嫉妬深さ」ではなくて、半端なく酷い「嫉妬深さ」なのです。

其の大后、石之日賣の命、嫉妬甚多し。故、天皇の使える妾は宮の中を臨むことを得ず。言立つれば、足もあがかに嫉妬たまひき。

嫉妬深い石之日賣の命(磐姫皇后)は、自分以外の妃を宮に近づけず、その妃たちが何か特別なことを言うたびに足をじたばたさせるほど嫉妬したというのです。幼児ではないのですから、「足もあがかに嫉妬たまひき」とはとんでもない記述です。
さらには、そのような皇后に恐れを為して故郷に帰ろうとした妃がいたのですが、その妃に対して仁徳天皇が歌で船を見送ったと聞くと、「大后、是の御歌を聞きて大きに忿りて、人を大浦に遣し追い下して歩より追い去りき」というのです。当時の貴人は地面の上を歩くと言うことはしなかったのですから、わざわざ船を追いかけて妃を引きずり下ろし、さらには歩いて故郷に帰らせると言うのは大変な侮辱行為だったのです。
そして、古事記ではこの後も嫉妬深い「磐姫皇后」の行状が延々と語られていくのです。
つまりは、古事記や日本書紀の記述のままでは、「皇族でない女性が皇后にむかえられた事があった」という前例ではなくて、「皇族でない女性を皇后にむかえるとどれほど大変なことになってしまうか」という前例のようなものになっているのです。

そこで、持ち出されたのが「磐姫皇后」の名で読まれた先の4首だったのです。
その4首には古事記や日本書紀で伝えられる嫉妬深い女性ではなくて、夫である仁徳天皇をひたすら待ち続ける貞淑な女性としての「磐姫皇后」が描かれるのです。
第1首では長く訪れることのない天皇に対してひたすら待ち続けましょうと歌い、第2首では恋しさのあまり岩を枕に死んでしまう方がましだと歌うのです。
続く第3首では黒髪が白く変わるまで待ち続ける決意を述べ、最後の第4首ではいつになれば自分の恋心は晴れるのだろうかと、ひたすら待ち続ける女性を演じてみせるのです。
そこには、嫉妬に狂って手足をじたばたさせたという姿などは微塵もうかがえないのです。

この4首からは、文学というものがつくり出すイメージの力を知り抜いている人物の姿が浮かび上がってきます。
そして、そこでもう一つ注目するのは、この第1首に関してはわざわざと「右の一首の歌は、山上憶良の類聚歌林に載す」という左注が付いている事です。もちろん、この左注があるからと言って、この歌が憶良によって作られたなどとは断定できません。しかし、少なくともそう言うイメージ戦略に憶良が関わっていた可能性は指摘できるでしょう。
その様に考えれば、この「鎮懐石の歌」もその様なイメージ戦略の中で求められた創作活動ではなかったかと推測されるのです。
ただし、ここまで述べてきたことはあくまでも私見であり、大谷先生の講座ではそう言う話は一切ありませんでした。その辺りは素人の気軽さであって、専門家というのは確たる根拠や典拠がない限りは安易な推測は口にしないものなのです。

懸(か)けまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ) 神の命(みこと) 韓国(からくに)を 向(む)け平(たひら)げて 御心(みこころ)を 鎮(しづ)め給ふと い取らして 斎(いは)ひ給ひし 真珠(またま)なす 二つの石を 世の人に 示し給ひて 万代(よろづよ)に 言ひ継(つ)ぐがねと 海(わた)の底 沖(おき)つ深江(ふかえ)の 海上(うなかみ)の 子負(こふ)の原に み手づから 置かし給ひて 神(かむ)ながら 神(かむ)さび坐(いま)す 奇魂(くしみたま) 今の現(をつつ)に 尊きろかむ

おそらく、この長歌を現代語に訳してもほとんど意味を持たないでしょう。それは、大谷先生も指摘されていたのですが、この書き出しの部分などはほとんど「祝詞」のように聞こえるからです。
そして、この「鎮懐石の歌」が「神功皇后伝承」のイメージ戦略だとすれば、この祝詞風の長歌は「神功皇后伝承」を神話と歴史の淡いに溶け込ませる役目を果たしています。そして、その淡いに溶け込ませることによって、「神功皇后伝承」と言う剥き出しのフィクション性を緩和する働きをしているように思えるのです。
ちなみに、上の長歌を現代語の訳すと概ね以下のようにはなります。

口にするのも、いいようもなく尊いことだ。神功皇后が朝鮮を平定なされて、お心をお鎮めになろうとお取りになり、おまつりになった美しい玉のごとき二つの石を、世の人にお示しになり末永く語り伝えるようにと、海の底のように奥深い深江の海上の、子負の原に御手自らお置きになって、神そのものとして神々しくあられる霊妙なるみ魂は、今の世にも尊いことよ。

細部まで詳細に述べた散文としての「序」と、この神に語りかけるような祝詞風の「長歌」が出会うことで不思議な空間が立ちあらわれて、その空間に「神功皇后伝承」というフィクションが上手くはまりこむのです。その雰囲気は現代語に翻訳してしまうと消えてしまいます。

天地(あめつち)の共(とも)に久しく言ひ継(つ)げと此の奇魂(くしみたま)敷(し)かしけらしも

「敷(し)かしけらしも」とは意味の取りにくい言葉です。一般的には「統治する」という意味なのですが、ここでは「石が置かれた場所を鎮める」という意味に取るべきだというのが大谷先生の指摘でした。
つまりは、この神功皇后伝承の鎮懐石にまつわる話を「天地の共に久しく言ひ継げ」と呼びかけるのです。そして、その鎮懐石に込められた霊妙なる魂はこの地を鎮めるだろうと締めくくるのです。
ところが、そこまで記しておきながら憶良は最後の最後に「右の事を伝へるは、那珂(なかの)郡の伊知(いち)の郷蓑島(さとみのしま)の人、建部(たけべ)牛麿なり」と左注をつけて一切の根拠や典拠に関わる責任をこの「建部牛麿」なる人物に押しつけるのです。

もしかしたら、山上憶良や柿本人麻呂、山部赤人などと言うのは、政権内における広報担当のような役割をはたしていたのかもしれません。そう考えると、こういう創作活動は「宮仕えの仕事」であり、文学者としての矜恃からはほど遠いものだったはずです。
それ故に、憶良は敢えてこの作品には自らの名前を記さなかったのでしょう。
この左注をじっと見つめていると、いくら宮仕えの仕事とはいえ、そんな嘘話の正当化のために全ての責任を押しつけられるのは御免だという官僚ならではの身の処し方みたいなものも見えてくるような気がします。
そう言えば、時の権力者のお友達優遇に荷担させられた官僚の多くが、後の責任追及を避けるために普通は書き込まないような内容までメモに残していました。
そう言う官僚の賢さは1000年以上の時が経ても本質的には全く変わっていないのかもしれません。(終わり)