万葉集を読む(35)~(大伴旅人)「梅花の宴 巻五 815~846番歌」(2)

さて、「序」に続いて、この「梅花の宴」で歌われた三十二首が一気に紹介されています。井上先生によると、昔はこの三十二首を手掛かりとして旅人主宰による「梅花の宴」の席順などが詳しく研究されたそうです。そして、その席順の想定などをもとに、これらは四つのグループに分かれるのではないかというようなことも言われたそうです。
確かに、それぞれの歌には名前と官職が記されていますから、この三十二首が上級の職から下っ端に向かって並べられていることが分かります。冒頭の「大弐紀卿」という人は太宰府のナンバー2で、それに続く「少弐小野大夫」というのがナンバー3に当たるそうです。そして、それらに続いて筑前守とか豊後守という国守クラスが続いていて、8番目に主人である旅人の歌が披露されることで一つのまとまりとなっています。

つまりは、旅人までの7人がこの宴のいわゆる「主賓」にあたる人だと考えていいようなので、それに従って残る24人も8人ずつのグループとして着座したのではないかと想定したようなのです。しかしながら、そう言うことはどれほどもっともらしい理屈をつけてみても、最終的にその真偽を確かめる手段はないのですから、実証主義に基づくことを大前提とする昨今の研究ではそう言う「無駄」な事は意味がないとされているようです。
おそらく、学問的にはそう言う「禁欲的」なスタイルを取らざるを得ないのでしょうが、なんだかちょっとつまらないなと言う思いもします。

それからもう一つ、「大弐紀卿」とか「少弐小野大夫」というのは、少し気取って「中国風」に名乗ったものなので、なかには「中国風」になりすぎていて「名未詳」となっている人も多いようです。ちなみに、主賓中の主賓である「大弐紀卿」と言う人もそういう「名未詳」の一人になってしまっているようです。
それにしても、「蘭亭序」の「曲水の宴」を踏まえて「梅花の宴」を行うだけでなく、出席者全員が名前まで「中国風」にして「歌」を詠んだとは、驚くほどの凝りようです。

正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽(たの)しきを経(へ)め
大弐紀卿(だいにきのまへつきみ)

おそらくは、主人である旅人を含めたこの8人がこの宴の主賓であることは間違いないでしょう。その事を実証する資料はないのですが、そう考えてもきっと間違いではないかと思います。
まず最初の歌は、宴のオープニングとしては実にソツのない歌ですから、おそらく出かける前から考えてきたものかもしれません。「梅を招きつつ楽しきを経め」とは「梅を招いて、さあみんなで楽しもうぜ!!」という感じでしょうか。

梅の花今咲ける如(ごと)散り過ぎずわが家(へ)の園(その)にありこせぬかも
少弐小野大夫(せうにをののだいぶ)

ところが、それを受けた「少弐小野大夫」の歌が一転して「わが家の園にありこせぬかも」と、目の前の梅ではなくて我が家の梅に思いを馳せてしまうのです。
この「我が家」が奈良の都にある「我が家」だとすれば、これはまさに望郷の歌になってしまいます。

ちなみに、「少弐小野大夫」とは「小野老」の事らしくて、「小野老」と言えば
青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
の歌が有名なのです。
この「青丹よし」の歌は華やかな平城京の素晴らしさを読んだ歌だと言われているのですが、実は奈良の都で詠んだ歌ではなくて太宰府に派遣されたときの歌なのです。これは私も知らなかったのですが、この有名な歌は実は「望郷の歌」だったのです。

太宰府と言えばすぐに「菅原道真」と結びついて、それはすぐに「左遷」という言葉にも結びついていくのですが、旅人が派遣された時代にはその様なことはありませんでした。実際、太宰府から都に帰った旅人は大納言に昇進していますし、この「小野老」自身も20年ぶりに従五位下から従五位上へ昇進することで太宰府に派遣されることになったのです。
ですから、間違っても出世コースから外れた「島流し」などではなかったのですが、それでも当時の貴族にしてみれば都を離れるというのは辛いものがあったようなのです。
特にこの「小野老」という人物はその様な思いが強かったのか、上司が「さあみんなで楽しもうぜ!!」と言っているのに、「ああ、でも都に帰りてー」なんて歌ってしまうのです。もしかしたら、この「小野老」はいつも「都に帰りたい、かえりたい」とぼやいていたので、みんなは「小野老さん、今日もまたあんな事言ってるよ」みたいな感じだったのかも知れません。

梅の花咲きたる園の青柳(あをやぎ)は蘰(かづら)にすべく成りにけらずや
少弐粟田(あはたの)大夫

「少弐粟田大夫」は「粟田人上」という人らしいのですが、「少弐」となっているので「小野老さん」と同じ官職だったのでしょうか。
「青柳は蘰にすべく」とは、しだれ柳の枝が頭に巻いて飾りに出来るほどという意味らしいです。この後に、梅の枝を頭にさす(挿頭:かざす))、つまりは簪にするという表現が出てくるのですが、これは梅の枝を頭にさすことでその生命力をいただくという意味合いがあったそうで、この風習が後の時代に女性の髪の毛を装飾する簪の起源となったようなのです。
江戸時代になると簪には鼈甲や珊瑚などの高価な品が使われるようになっていくのですが、本来は「生の花」をささなければ意味を持たないそうです。
それから、考えようによっては、いいおじさんたちが集まって髪の毛に梅の花をさすというのもいささかシュールな光景なのですが、それもまた当時の風習だったようです。

春さればまづ咲く庭の梅の花独り見つつや春日暮(はるひくら)さむ
筑前守山上(つくしのみちのくのかみやまのうへの)大夫

「筑前守山上大夫」とは言うまでもなく筑前国守だった山上憶良のことです。
最下級の貴族の家に生まれた憶良が遣唐使の一員として中国で学ぶ機会を得たことで、ここまで出世したのです。
この歌は梅を詠んだ万葉の歌のなかでももっとも有名なものの一つで、さすがは憶良です。
「独り見つつや春日暮さむ」とは、春になると誰よりも先んじて花を咲かせる梅の花の素晴らしさを、どうして一人家に閉じこもってみていられようかというようなニュアンスです。
この「梅花の宴」を催したボスである旅人への嫌らしくない範囲でのヨイショになっています。

世の中は恋繁(しげ)しゑやかくしあらば梅の花にも成らましものを
豊後守大伴(とよのみちのしりのかみおほともの)大夫

「豊後守大伴大夫」は「名未詳」のようですが豊後の国守ですね。
「世の中は恋繁し」の「恋」というのは男女間のものだけでなく、もっと広い万物への恋ととるべきようです。そうしないとあまりにも唐突に過ぎます。
そして、そう言う愛でるべきものが溢れているならば、いっそ自分が梅になってしまいたいというのです。
いささか理屈が前に出すぎた歌かも知れません。

梅の花今盛りなり思ふどち插頭(かざし)にしてな今盛りなり
筑後守葛井(つくしのみちのしりのかみふぢゐの)大夫

「筑後守葛井大夫」は「葛井大成」との事で、筑後の国守でした。弟の「葛井広成」は遣新羅使に任ぜられて新羅へ赴いた人物で、歌人としても有名でした。
「插頭にして」とは、「少弐粟田大夫」さんのところで説明したとおりです。
ただ、この歌が面白いのは「梅の花今盛りなり/思ふどち插頭にしてな/今盛りなり」という3句構成になっていて、そこに「今盛りなり」を繰り返すことで非常に心地よいリズム感が生まれていることです。「葛井大成」さんは弟の「葛井広成」が有名な歌人だっただけに、なかなかの詠み手だったと思われます。

青柳(あをやなぎ)梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし
笠沙弥(かさのさみ)

「笠沙弥」は「沙弥満誓」のことで俗名は「笠立」だった人物のようです。つまりは僧侶のことなのですが、この宴に招かれた僧職にある人物としてはもっとも高位だったようです。
「青柳梅との花を折りかざし」というのは、今まで青柳や梅をかざそうという話が出てきたので、それを受けて上手くまとめたと言うことでしょうか。しかし、それに続けて「飲みての後は散りぬともよし」と、かざして酒を飲んだら後はさっさと散ってもいいよと言うのはいささか乱暴です。少し、このあたりでは酔いも回ってきたのでしょうか。

わが園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも
主人(あるじ

この「主人」とは言うまでもなく大伴旅人のことです。
もしかしたら、ここまでが「来賓挨拶」みたいな堅苦しい場面だったのかも知れません。そして、そう言う堅苦しい場面はここまでと言う形で旅人が一区切りをつけたのかも知れません。

ただし、この白梅が散る様子を天からふってくる雪に例えたこの歌は非常に美しいでしょう。これも、お坊さんの「沙弥満誓」が「やることをやったので後は散ってもいいよ」と歌ったのに対して、それを美しく受けることで中締めとしたのかも知れません。(続く)