まず最初の8首はこの梅花の宴の主賓クラスによるものでした。
官職で言えば、太宰府の次官クラスと各国の国守、そして僧職のトップと思われる人物でした。
今回紹介する8首はそれに次ぐ官職と言うことになるようです。
梅の花散(ち)らくは何処(いづく)しかすがにこの城(き)の山に雪は降りつつ
大監伴氏百代(ばんしのももよ)
「大監伴氏百代」の「大監」とは太宰府の三等官で、官位としては「正六位下」に該当するらしいです。
そして、ここでも名前は「伴氏百代」と中国風に短縮されているのは主賓クラスと同じです。おそらく、この「伴氏百代」とは「大伴百代」の事だと思われます。
この「大伴百代」はこの巻五では一度登場しています。それが、大伴旅人と藤原房前との間でやり取りされた「日本琴の歌」を太宰府と奈良の間で取り次いだ人物です。
あの中で「十一月八日 附還使大監(十一月八日 還る使いの大監に附す)」と記されている「還る使いの大監」が大伴百代のことです。
おそらく、この百代は大伴の一族として、太宰府と朝廷の間を定期的に行き来して連絡や調整を行っていたものと思われます。ですから、長官である旅人とも親しかったのでしょう、「わが園に梅の花散る」と詠んだ旅人に対して「梅の花散らくは何処」と、「何処で梅の花が散っているんですか?」と軽口をかえしています。
これにつづく「しかすがに」とは意味の取りにくい言葉なのですが現代語に訳すと「そうではあるが」のような意味になるようです。おそらくは、梅の花なんて何処にも散ってないではないですかだけでは反発だけし残らないので、それに続けて散る梅の花を雪に例えた旅人に答えて「この城の山に雪は降りつつ」、つまりは太宰府の奥にそびえる山(大野山)では雪が降っているかも知れませんね」と応えたのです。
梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林に鶯(うぐひす)鳴くも
少監阿氏奥島(せうげんあしのおきしま)
「少監阿氏奥島」の「少監」も太宰府の三等官なのですが、官位としては「従六位上」相当なので、「大監」よりはワンランク落ちる官職のようです。
また、「阿氏奥島」とは「阿倍奥島」の事と考えられています。「大伴氏」を「伴氏、「阿倍氏」を「阿氏」というように一文字に短縮するのが中国風だったようです。
彼の場合は旅人に対して軽口をたたける身ではなかったようで、おそらく梅の花は散ってなかったと思われるのですが、旅人の歌を素直に受けて「梅の花散らまく惜しみ」と詠んでいます。そして、そこに「わが園の竹の林に鶯)鳴くも」として、新しく竹とウグイスを登場させて世界を広げようとします。
梅の花咲きたる庭の青柳を蘰(かづら)にしつつ遊び暮さな
少監土氏百村(せうげんとしのももむら)
「少監土氏百村」は「土師百村」のことだと考えられています。こうしてみると、「阿倍氏」とか「土師氏」のような、昔から名のある豪族からも太宰府にはけんされていたようです。
そして、深読みかも知れませんが、この「土師百村」と言う人は細かいところまで気持ちが行き届く人だったようです。
何故ならば、主賓クラスの詠んだ歌の中で、まだ誰もがふれていなかったのが「少弐粟田大夫」が詠んだ「青柳」であることに気づいて「青柳を蘰にしつつ遊び暮さな(青柳を頭の飾りにして一日遊んで過ごしましょう)」と詠んだのでした。
このあたりの微妙な心遣いは一千年以上経った現在にあってもそれほど大きく変わってはいないようです。
うち靡(なび)く春の柳とわが宿(やど)の梅の花とを如何(いか)にか分(わ)かむ
大典史氏(だいてんししの)大原
「大典史氏大原」の「大典」とは四等官の上位のことで官位としては「正七位上」相当だそうです。
また、このあたりになると職掌がはっきりしてくるようで、「大典」とは文書担当の官僚だったようです。「史氏大原」は残念ながら名未詳のようです。
ただし、文書担当と言うことで和歌にも精通していると思ったのですが、あまりパッとしない歌のように思われます。もしかしたら、「粟田大夫」が詠んだ「青柳」に誰もふれていないのでそれを取り上げようと思っていた矢先に「土師百村」さんが取り上げてしまったので焦ったのかも知れません。
それから、ここで「わが宿」と詠んでいたり、「阿倍奥島」さんが「わが園」と詠んでいるのは、あの「小野老」さんのような望郷の意味合いはなくて、宴も進んできた寛ぎの中で、その宴が行われている旅人の宅のことを「わが宿」「わが園」と詠んだものです。
春されば木末隠(こぬれがく)れて鶯そ鳴きて去(い)ぬなる梅が下枝(しづえ)に
少典山氏(さんしの)若麿
「少典山氏若麿」の「少典」とは四等官の下位で、官位としては「正八位上」に相当するようです。
担当は「大典」と同じく文書担当です。「山氏若麿」は「山口若麿」の事です。
面白いと思うのは、「鶯そ鳴きて去ぬなる梅が下枝に」と、「梅と鶯」という組み合わせがすでにこの時代の感性の中にあったことです。この感性は「山口若麿」さんの発想とは思えませんから(もしもそうだったら凄い!!)、当時の共通認識としてすでに存在したものなのでしょう。、
人毎(ひとごと)に折り插頭(かざ)しつつ遊べどもいや愛(め)づらしき梅の花かも
大判事丹氏麿(だいはんじたんしのまろ)
「大判事丹氏麿」の「大判事」とは、その漢字から見当がつくように司法担当の官僚です。また、官位は「従六位下」に相当と言うことなのですが、何故かそれよりも下位の「大典」「少典」よりも後になっています。もしかしたら、「従六位下」相当の職であっても、若手と言うことでそこまで官位が進んでいなかったのかも知れません。ここまで見る限りでは、かなり席次は厳密に守られているようなのでその様に想像するのですが、律令体制下での官職と官位の対応は何処まで厳密だったのでしょうか?
ただし、「従六位下」相当と「正八位上」相当ではかなりの差がありますから、ここでは官位よりは職掌をもとに席次を決めたのかも知れません。
それから、「丹氏麿」とは「丹治比」かと考えられています。
歌の方は梅の花を頭に插頭すという既出の話題を上手く取り込んで無難にまとめています。
梅の花咲きて散りなば桜花継て咲くべくなりにてあらず
薬師張氏福子(くすりしちやうしのふくし)
「薬師張氏福子」の「薬師」とは言うまでもなく医師のことで、太宰府に二名常駐したようです。官位は「正八位上」相当だったようです。
それから「張氏福」とは誰のことなのか未詳なのですが。写経生の中に「張上福」という名が見えるのでその兄弟ではないかと見る人もいるようです。
このお医者さんの歌で面白いのは、「梅の花咲きて散りなば桜花継て咲くべくなり」と、梅が散ったならば次は桜だと言うことを歌っていることです。「梅は咲いたか桜はまだかいな」は江戸時代の端唄ですが、その感性がすでに万葉の時代からったと言うのは注目に値します。
万代(よるづよ)に年は来経(きふ)とも梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし
筑前介佐氏子首(すけさしのこおびと)
「筑前介佐氏子首」の「筑前介」は二等官で、官位は「従六位上」相当と言うことです。
「佐氏子首」の「佐氏」は「佐伯氏」のことかと思われるのですが具体的に誰なのかは未詳のようです。
この第二グループの最後に「従六位上」相当の官位の人が来るのは、席次を無視したと言うよりは、これもまた一つの区切りだったと考えた方がいいのかも知れません。
「万代に」というめでたい言葉で初めて「絶ゆることなく咲き渡るべし」と締めくくるのは、一つの結びとしては実に相応しい歌です。
「佐氏子首どの、このあたりで中締めを」などと言われて、サラッとこのような詩が詠めるとしたら、なかなかの詠み手ではなかったかと思われます。(続く)