万葉集を読む(48)~(吉田宜)「吉田宜の書簡 巻5 864~867」(1)

万葉文化館の今年度最初の講座は「吉田宜の書簡 巻5 864~867」で、講師は井上さやか先生でした。新元号「令和」が発表されてからの最初の講座でもあったのでとても楽しみにしていたのですが、すでに別のところでも報告したように救急車で搬送され1週間入院するという仕儀になったので、実に残念な思いだったのですがこの講座には参加できませんでした。
もちろん、入院と言っても病院にいるのは夜だけなので、参加しようと思えば参加できたのですが、さすがにそこまでの体力と気力はありませんでした。(^^;

と言うことで、今回は中西進先生の「万葉集 全訳注 原文付(1)」を参考に自分なりに詠んでみたいと思います。

カタクリの花


吉田宜は「よしだよろし」もしくは「きちだよろし」と詠むそうです。
宜は、おそらくは百済系の渡来人だと思われるのですが、医学に関する優れた知識と技術を持っていた人物で、朝廷内においても重用されていた人物でした。
ところが、何を思ったのか出家して「八恵俊」と名乗るようになってしまうのです。宜にしてみればそれなりの思いもあり、それはそれで良かったのでしょうが、困ったのは朝廷の側だったようです。

出家されてしまえば、医者としての知識と技術を伝える弟子をとることが出来なくなるので、彼が亡くなってしまうとそれがすべて失われてしまうことになるからです。そして、その事を憂慮した朝廷は、文武天皇の命によって還俗をさせ「吉田」の性を与え、さらに優れた学生を弟子入りをさせ、彼の知識と技術を継承させようとしたのです。

つまりは、それほどの人物であったがゆえに、どこかで大伴旅人とも接点が出来、奈良と太宰府に分かれても以下のような手紙のやり取りがあったのでしょう。
まずは、宜から旅人にあてた書簡の内容を紹介しておきます。

吉田宜書簡

宜啓(よろしまを)す。伏して四月六日の賜書(ししよ)を奉(うけたまは)る。
跪(ひざまづ)きて封函(ふうかん)を開き、拝(をろが)みて芳藻(はうさう)を読む。
心神(こころ)は開郎にして、泰初(たいしよ)が月を懐(むだ)きしに似(に)、鄙懐除去(ひくわいぢよきよ)して、楽広(がくくわう)が天を披(ひら)きしが若(ごと)し。

「辺城に羇旅(きりよ)し、古旧を懐(おも)ひて志を傷(いた)ましめ、年矢停(ねんしとどま)らず、平生(へいぜい)を憶(おも)ひて涙を落とすが若(ごと)きに至る」は、ただ達人の排(はい)に安みし、君子の悶(うれへ)無きのみ。

伏して冀(ねが)はくは、朝(あした)には翟(きぎし)を懐(なつ)けし化(け)を宣べ、暮(ゆふへ)には亀を放ちし術(すべ)を在し、張(ちょう)・趙(てう)を百代に架(か)し、松(しよう)・喬(けう)を千齢に追はむを。
兼ねて垂示(すいじ)を、奉(うけたまは)るに、梅苑の芳席(はうせき)に、群英の藻(さう)を摘(の)べ、松浦の玉潭(たん)に、仙媛(やまひめ)の贈答せるは、杏壇各言(きやうだんかくげん)の作に類(たぐ)ひ、衝皐税駕(かうかうぜいが)の篇に疑(なぞ)ふ。
耽読吟諷(たんどくぎんぷう)し、戚謝歓怡(せきしやくわんい)す。

宜(よろし)の主(うし)を恋(しの)ふ誠は、誠、犬馬に逾(こ)え、徳を仰ぐ心は、心葵蕾(きくわく)に同じ。
而も碧海(へきかい)は地を分ち、白雲は天を隔て、徒らに傾延(けいえん)を積む。何(いか)に労緒(らうしよ)を慰めむ。
孟秋(まうしう)、節に膺(あた)れり。
伏して願はくは万祐(まんいう)の日に新たならむを。

今相撲部領使(すまひのことりづかひ)に因りて、謹みて片紙(へんし)を付く。

宜、謹みて啓(まを)す。不次(ふし)

これもまた、旅人の手になる「梅花の宴」の序と遜色がないほどに美文であり、至るところに漢籍の知識が散りばめられていることが分かります。講座には参加できなかったのですが、それくらいの見当はつくようになりました。
また、少しばかり調べてみないと意味のとりにくい言葉もあるのですが、「宜啓(よろしまを)す。伏して四月六日の賜書(ししよ)を奉(うけたまは)る。跪(ひざまづ)きて封函(ふうかん)を開き、拝(をろが)みて芳藻(はうさう)を読む。」と記されているので、これは旅人からもらった書簡への返信であることが分かります。

言うまでもないことですが、「四月六日の賜書」とは旅人から宜にあてて送られた書簡の事です。
その書簡を「跪きて封函を開き、拝(をろが)みて芳藻(はうさう)を読む」とは大げさに過ぎるような気もするのですが、おそらくこれが正式な書簡のスタイルだったのだろうと思われます。なお、「拝(をろが)みて芳藻(はうさう)を読む。」とはいささか意味がとりにくいのですが、「芳藻」とは「立派なお手紙」という意味があるので、「立派なお手紙を拝読しました」と言うことになるようです。

それからもう一つ重要なことは、旅人から宜にあてた書簡の内容がどのようなものだったのかは正確には分からないのですが、宜はその書簡において「奉(うけたまは)るに、梅苑の芳席(はうせき)に、群英の藻(さう)を摘(の)べ、松浦の玉潭(たん)に、仙媛(やまひめ)の贈答せるは、杏壇各言(きやうだんかくげん)の作に類(たぐ)ひ、衝皐税駕(かうかうぜいが)の篇に疑(なぞ)ふ。」と記しているので、旅人の書簡には「梅花の宴」や「松浦川に遊ぶの序と歌」が添えられていたことは間違いないようです。
ただし、この一文は、前半の「奉(うけたまは)るに、梅苑の芳席(はうせき)に、群英の藻(さう)を摘(の)べ、松浦の玉潭(たん)に、仙媛(やまひめ)の贈答せるは」に関しては簡単に意味が取れるのですが、後段の「杏壇各言(きやうだんかくげん)の作に類(たぐ)ひ、衝皐税駕(かうかうぜいが)の篇に疑(なぞ)ふ。」の意味をとるのはかなり困難です。

曲阜孔廟大成殿


そこで、中西先生の注釈を参考にすれば「杏壇各言(きやうだんかくげん)」とは、「孔子の杏壇で弟子たちが意見を語り合った」とされています。
「杏壇」とは、孔子が学問を講じた壇のまわりに杏の木があったところから生まれた言葉であって、孔子のもとで学問を学ぶ場という意味を持つようになったようです。

ですから、読みようによっては宜は旅人を孔子になぞらえて、その旅人の要請にこたえて梅花の歌を提出した宴の参加者や、松浦川で仙女と歌をかわした貴人をその弟子と見立てたのかもしれません。
そうだとすれがこれはかなりの「ヨイショ」です。(^^;

また、「衝皐税駕(かうかうぜいが)の篇に疑(なぞ)ふ。」も意味がとりにくいのですが、この背景には「神女の賦」という中国の小説において、作者が車駕を香草の沢に捨てたというストーリーがイメージされているとのことです。現在の私たちからすれば、あまりにも細部を端折りすぎ手いるので全く意味不明の表現になっているのですが、奈良時代の教養人であればその様な端折った表現だけで意味することは十分に理解できたのです。

と言うことで、この書簡は旅人から宜にあてて「梅花の宴」と「松浦川に遊ぶ」の2作品が送られ、それへの感謝を含めながら宜なりの思いを伝えるのが目的だったように推測されるのです。(続く)