万葉集を読む(50)~(吉田宜)「吉田宜の書簡 巻5 864~867」(3)

最初に取り上げている内容を紹介しておく方が親切なようですので、繰り返しになりますが宜から旅人に宛てた書簡をしつこく最初にのせておきます。

宜啓(よろしまを)す。伏して四月六日の賜書(ししよ)を奉(うけたまは)る。
跪(ひざまづ)きて封函(ふうかん)を開き、拝(をろが)みて芳藻(はうさう)を読む。
心神(こころ)は開郎にして、泰初(たいしよ)が月を懐(むだ)きしに似(に)、鄙懐除去(ひくわいぢよきよ)して、楽広(がくくわう)が天を披(ひら)きしが若(ごと)し。

「辺城に羇旅(きりよ)し、古旧を懐(おも)ひて志を傷(いた)ましめ、年矢停(ねんしとどま)らず、平生(へいぜい)を憶(おも)ひて涙を落とすが若(ごと)きに至る」は、ただ達人の排(はい)に安みし、君子の悶(うれへ)無きのみ。

伏して冀(ねが)はくは、朝(あした)には雉(きぎし)を懐(なつ)けし化(け)を宣べ、暮(ゆふへ)には亀を放ちし術(すべ)を在し、張(ちょう)・趙(てう)を百代に架(か)し、松(しよう)・喬(けう)を千齢に追はむを。
兼ねて垂示(すいじ)を、奉(うけたまは)るに、梅苑の芳席(はうせき)に、群英の藻(さう)を摘(の)べ、松浦の玉潭(たん)に、仙媛(やまひめ)の贈答せるは、杏壇各言(きやうだんかくげん)の作に類(たぐ)ひ、衝皐税駕(かうかうぜいが)の篇に疑(なぞ)ふ。
耽読吟諷(たんどくぎんぷう)し、戚謝歓怡(せきしやくわんい)す。

宜(よろし)の主(うし)を恋(しの)ふ誠は、誠、犬馬に逾(こ)え、徳を仰ぐ心は、心葵蕾(きくわく)に同じ。
而も碧海(へきかい)は地を分ち、白雲は天を隔て、徒らに傾延(けいえん)を積む。何(いか)に労緒(らうしよ)を慰めむ。
孟秋(まうしう)、節に膺(あた)れり。
伏して願はくは万祐(まんいう)の日に新たならむを。

今相撲部領使(すまひのことりづかひ)に因りて、謹みて片紙(へんし)を付く。

宜、謹みて啓(まを)す。不次(ふし)

宜が旅人のぼやきにこたえた後に以下のように記しています。

伏して冀(ねが)はくは、朝(あした)には雉(きぎし)を懐(なつ)けし化(け)を宣べ、暮(ゆふへ)には亀を放ちし術(すべ)を在し、張(ちょう)・趙(てう)を百代に架(か)し、松(しよう)・喬(けう)を千齢に追はむを。

万葉植物園の藤・・・今年は見に行くことが出来なかった

これも意味を理解するのが難しい一節ですが、後段に「張(ちょう)・趙(てう)を百代に架(か)し、松(しよう)・喬(けう)を千齢に追はむを。」と記しているので、おそらくは「張(ちょう)・趙(てう)」とか「松(しよう)・喬(けう)」とか言う人物が登場する漢籍があって、そこで述べられている故事を踏まえたものであろう事は推測されます。
ところが、調べてみると、前段の「伏して冀(ねが)はくは、朝(あした)には雉(きぎし)を懐(なつ)けし化(け)を宣べ、暮(ゆふへ)には亀を放ちし術(すべ)を在し」もまた漢籍に典拠があることが分かったので、さすがに恐れ入ってしまいました。

「朝(あした)には雉(きぎし)を懐(なつ)けし化(け)を宣べ」とは、後漢書列伝にも登場する「魯恭」なる人物の故事で、彼が治める地ではその善政ゆえに人民にも徳は行き渡り、その領内では子供といえども雛を育てる雉を捕らえようとしなかったと言う故事が踏まえられています。
続く「暮(ゆふへ)には亀を放ちし術(すべ)を在し」も同様で、晋の時代の孔愉という人物の故事が背景にあります。

孔愉が余不亭という地を訪れたときに「亀の路に籠する者を見る。愉、買いて、之を渓中に放つ。亀、中流にして左顧するは数回。」という出来事があったというのです。
そして、後に彼が余不亭の侯に任じられる事になるのですが、その長官の印鑑を作るときに亀を彫らせると「印の亀、左顧す。三たび鑄するに初めの如し。」という出来事が起こるのです。
孔愉はその事を持って、自らがこの地の長官に選ばれたのは以前に救った亀の恩返しであることを知ったというのです。

つまりは、書簡を受け取った旅人は「朝(あした)には雉(きぎし)を懐(なつ)けし化(け)を宣べ、暮(ゆふへ)には亀を放ちし術(すべ)を在し」という一節から漢籍に典拠を持つこれだけの出来事を瞬時に理解したのです。
そして、その意味するところは、太宰府の長官として赴任した旅人もまた、朝に夕に、その様な善政を施すことを願うと宜は述べているのです。

万葉植物園

そして、その様な善政によって、優れた漢の時代の官人であった「張(張敞)・趙(趙広漢)」のようにその令名が100年後までも語り継がれたように旅人の名も語り継がれ、さらには「松(赤松子:神農の時の人)・喬(王子喬:周の太子)」のように千歳の寿を保つようにしてくださいと励ましているのです。
どちらにしても、友からの励ましを理解するために、これだけの教養が求められるのですから、それはもう大変なものです。(^^;

そして、宜の書簡は最初にふれたように、旅人から送ってもらった「梅花の宴」と「松浦川で遊ぶの序と歌」についての話題へと移っていくのです。

兼ねて垂示(すいじ)を、奉(うけたまは)るに、梅苑の芳席(はうせき)に、群英の藻(さう)を摘(の)べ、松浦の玉潭(たん)に、仙媛(やまひめ)の贈答せるは、杏壇各言(きやうだんかくげん)の作に類(たぐ)ひ、衝皐税駕(かうかうぜいが)の篇に疑(なぞ)ふ。
耽読吟諷(たんどくぎんぷう)し、戚謝歓怡(せきしやくわんい)す。

それにしても「伏して四月六日の賜書(ししよ)を奉(うけたまは)る。」から始まって、旅人からもらった書簡に添う形で相手への気遣いと励ましを丁寧に述べた後に本題に入っていくこの書きぶりは見事としか言いようがありません。
そして、最後に旅人への深い思いを述べて書を閉じるのです。

宜(よろし)の主(うし)を恋(しの)ふ誠は、誠、犬馬に逾(こ)え、徳を仰ぐ心は、心葵蕾(きくわく)に同じ。
而も碧海(へきかい)は地を分ち、白雲は天を隔て、徒らに傾延(けいえん)を積む。何(いか)に労緒(らうしよ)を慰めむ。

「主(うし)を恋(しの)ふ誠は、誠、犬馬に逾(こ)え」という表現は自分を犬や馬になぞらえているのでいささかギョッとするのですが、中西先生によればそれはこの時代の「慣用的表現」だったようで、卑屈なまでにへりくだっているわけではないようです。
「葵蕾」は「向日葵」のことで、向日葵が天を仰ぐように私も旅人の徳を仰いでいるというのですが、これもまた一種の決まり文句だったのかもしれません。

そして、最後に都と太宰府という遠く離れた地にいることを嘆き、その嘆きを何によって慰めればいいのだろうと述べているのです。
そして、ここまで述べてくればその答えは一つしかなく、このような憂いをはらうには歌によるしかないというのが結論であって、最後に旅人から贈られた歌に応える形で宜は6首の歌を添えることになるのです。

ただ、余談ながら、面白いと思ったのはこの宜の書簡は「相撲部領使」なるものによってこの書簡が旅人のもとに送られたと言うことです。

「部領使」とは人員や物資を引率して送り届けるための使者なのですが、その中に陰暦7月の「相撲節」で相撲をとるための人を京に召し出すための「部領使」もいたようなのです。
宜が「孟秋(まうしう)、節に膺(あた)れり。」と記している「節」とはこの「相撲節」のことで、九州からも都で相撲を取るために選ばれた力自慢が都に送られたのでしょう。
その力自慢たちを送り届ける「部領使」に宜はこの書簡を託したのでしょう。(続く)

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