宜は心をつくした手紙の最後に、4首の歌を添えて旅人におくっています。
旅人が添えたであろう二つの作品「梅花の宴」と「松浦川に遊ぶの序と歌」に唱和したものが2首、さらにはそれでは伝えきれるぬ思いがあったようで、「君を思ふこと尽きずして、重ねて題(しる)せる」として2首を添えています。
宜の漢籍に対する教養はすでにその書簡において遺憾なく披露されているのですが、大和歌に関しても優れた詠み手であったことがよく分かる作品です。
諸人(もろひと)の梅花(うめのはな)の歌に和(こた)へ奉れる一首
後(おく)れ居て長恋(ながこ)ひせずは御園生(みそのふ)の梅の花にもならましものを(巻5 864)
松浦の仙媛(やまひめ)の歌に和へたる一首
君を待つ松浦の浦の娘子(をとめ)らは常世(とこよ)の国の天娘子(あまをとめ)かも(巻5 865)
君を思ふこと尽きずして、重ねて題(しる)せる二首
遙遙(はろはろ)に思ほゆるかも白雲の千重(ちへ)に隔(へだ)てる筑紫(つくし)の国は(巻5 866)君が行日(ゆきけ)長くなりぬ奈良路なる山斎(しま)の木立(こだち)も神さびにけり(巻5 867)
天平二年七月十日
諸人(もろひと)の梅花(うめのはな)の歌に和(こた)へ奉れる一首
後(おく)れ居て長恋(ながこ)ひせずは御園生(みそのふ)の梅の花にもならましものを(巻5 864)
これは言うまでもなく、「梅花の宴32首」に唱和したものです。
「後(おく)れ居て長恋(ながこ)ひせずは」というのはいささか意味がとりにくいのですが、どうやら宜は自分のことをその場に参加できずに後れをとってしまった存在だと言っているのです。ですから、宴に参加できなかったことをいつまでも恋しく思っていないで、いっそ「御園生(みそのふ)の梅の花」になってしまいたいものだと感慨を述べているのです。
この「御園生」は言うまでもなく梅の花が咲き誇っている旅人の邸宅の庭のことを意味しています。
松浦の仙媛(やまひめ)の歌に和へたる一首
君を待つ松浦の浦の娘子(をとめ)らは常世(とこよ)の国の天娘子(あまをとめ)かも(巻5 865)
こちらは、「松浦川に遊ぶの序と歌」に唱和したものです。
松浦川であなたを待つという娘たちはきっと「常世(とこよ)の国の天娘子(あまをとめ」、つまりは神仙の国に住まう天女たちでしょうねと宜はかえしているのです。
まあ、この2首に関しては、歌としては当たり障りのない平凡なものと言わざるを得ません。
しかし、それに続けて「君を思ふこと尽きずして、重ねて題(しる)せる」とした2首には宜の深い思いがこめられています。
君を思ふこと尽きずして、重ねて題(しる)せる二首
遙遙(はろはろ)に思ほゆるかも白雲の千重(ちへ)に隔(へだ)てる筑紫(つくし)の国は(巻5 866)
君が行日(ゆきけ)長くなりぬ奈良路なる山斎(しま)の木立(こだち)も神さびにけり(巻5 867)
とりわけ、最後の「君が行日(ゆきけ)長くなりぬ奈良路なる山斎(しま)の木立(こだち)も神さびにけり」は万葉集の中でも優れた一首として記憶にとどめられる歌だと思われます。
少なくとも、私はこの歌には強く心をひかれます。
旅人の妻は都に残って夫の帰りを待つのではなくて旅人をおって太宰府に赴きます。そして、その長旅の無理がたたったのか、彼女は太宰府に着くとすぐにその地で亡くなってしまいました。その旅人の悲しみが憶良の「日本挽歌」へと昇華したことはすでに紹介したことです。
おそらく、都にある旅人の邸宅は妻が都を離れたことによって十分に管理されることもなく、「君が行日(ゆきけ)長くなりぬ」となったのですから庭も荒れ放題になっていたのでしょう。
その庭のもの寂しい様子に宜は旅人の妻の突然の死を重ねて「山斎(しま)の木立(こだち)も神さびにけり」と詠んだのです。
そして、その深い追悼の思いは、それに先立つ「遙遙(はろはろ)に思ほゆるかも白雲の千重(ちへ)に隔(へだ)てる筑紫(つくし)の国は」という一首によって二人を隔てる距離の長さが強調されることで、より深いものになっていきます。
確かに、旅人にしても宜にしても、当時の朝廷内においてはそれなりの地位にある人物でしたから、そのやり取りにはある種の儀礼的な側面があった事は否定できないかもしれません。
しかし、万葉集には、大伴家の中で伝えられてきた「私家版の歌集」だったという側面があります。
その事を考えれば、そこに書簡の内容も含めて宜の4首を収録をしていることは、そう言う儀礼的な側面にとどまらない深い交流があったと、旅人の息子である家持は判断したのでしょう。
「Line」のような「短い言葉のやり取り」だけでは絶対に伝わらない「人の心」というものがあることを、私たちは思い出す必要があるのかもしれません。