4月に行われた井上さやか先生の講座(吉田宜の書簡)は体調不良のために参加できませんでした。「令和」関連の大騒ぎもあって多くの人が押しかけたのではないかと想像していたのですが、予想に反して、参加者はいつもより少し多かった程度だったようです。
しかし、5月1日に行われた「梅花の宴」の講座は午前と午後の2回に分けたにもかかわらず会場に入りきれない人が出たために、会場外にモニターを設置したという噂を聞きました。ただし、犬養記念館で聞いたうわさ話なので真偽のほどは定かではありません。
3月の終わりに「友の会」の解散を決める総会の時には、2019年度も引き続き万葉文化館が存続できるのかどうかと言う質問が出るほどに危機的な状態だったのですから、世の中というのは何が起こるか分かりません。ただし、そう言う機会を捉えることが出来た背景には、長きにわたって学芸員の方々が非常に高いレベルの内容の講座を続けてこられたことを見落としてはいけないでしょう。
風に乗るだけでは、その風がやめば再び落下してしまいます。自分自身で飛べる力があってこそ風も利用できると言うことです。
そして、世間的に観れば「令和」騒ぎも一段落した5月の講座であり、内容的にも「山上憶良の松浦の歌」という「令和」とは直接関係のない、さらに言えば内容的にかなり地味な歌なのでどれほどの参加者があるのかと危惧していたのですが、結果的には4月の講座よりも多くの人が参加するという「驚きの状況」となったようです。
かなり多めに用意した資料もあっという間に品切れとなったようで、大急ぎで増し刷りが必要となった為に開始が少し遅れるという、今まででならば考えられないような状況とななりました。
近くに座られた方とお話をする機会があったのですが、4月の講座に初めて参加して、その内容にすっかり惚れ込んで今月も参加された方が何人もおられましたので、どうやらこの上昇気流は本物になりそうです。
さて、5月の講座は吉原啓先生による「山上憶良の松浦の歌 巻5 868~870」でした。内容的には地味なものなのですが、吉原先生の話を通して、この憶良の書簡とそれに添えられた3首の歌から「筑紫歌壇」と呼ばれることもある太宰府での文学仲間の姿が浮かび上がってくるような気がして、非常に興味深い講座となりました。
まずは、憶良の書簡とそれに添えられた3首を紹介しておきます。
憶良、誠惶頓首(せいくわとんしゆ)、謹みて啓(まを)す。
憶良聞かく「方岳(はうがく)の諸侯と都督刺史(ととくしし)とは、並(とも)に典法(てんぱふ)に依りて、部下を巡行して、その風俗を察(み)る」と。
意(こころ)は内に多端に、口(ことば)は外に出し難し。
謹みて三首の鄙(いや)しき歌を以(も)ちて、五蔵の欝結(むすぼほり)を写(のぞ)かむと欲(ねが)ふ。その歌に曰はく
この書簡文に続けて憶良は3首の歌を添えています。
松浦県佐用比売(まつらがたさよひめ)の子が領巾振(ひれふ)りし山の名のみや聞きつつ居(を)らむ(巻5 868)
帯日売(たらしひめ)神の命(みこと)の魚釣(なつ)らすと御立(みた)たしせりし石(いし)を誰(たれ)見き〔一(ある)は云はく、鮎(あゆ)釣ると〕(巻5 869)
百日(ももか)しも行かぬ松浦路今日(まつらぢけふ)行きて明日は来(き)なむを何か障(さや)れる(巻5 870)
天平二年七月十一日 筑前国司山上憶良謹みて上(たてまつ)る
まず、一般的に「筑紫歌壇」と呼ばれる文学サークルについて簡単に説明をしておきます。
この歌壇の中心人物は神亀5年(728年)に大宰帥として筑紫に派遣された大伴旅人です。その太宰府がある筑紫にはすでに山上憶良が神亀3年(726年)に国守として派遣されていました。そして、この二人を中心として多くの文学仲間(小野老・沙弥満誓・大伴 坂上郎女等など)が集まって出来上がったグループに対して後世の人は「筑紫歌壇」という名前を与えたのです。
しかし、このネーミングはおそらく旅人や憶良の心中を考えれば実に相応しいものでした。彼らは都を遠く離れた地であっても「遠の朝廷」とも呼ばれる太宰府にあって、都にも負けない、いやそれ以上の新しい文学的ムーブメントをおこそうとしたのです。
憶良の書簡は誰に宛てたものなのか
さて、今月の講座で最初に問題となったのが「憶良、誠惶頓首(せいくわとんしゆ)、謹みて啓(まを)す。」で始まる憶良の書簡が、誰に宛てて書かれたものかと言うことです。
これは普通に考えれば、旅人から憶良に宛てて「松浦川に遊ぶの序と歌」が示された書簡が送られ、その書簡に対して憶良なりの感慨を述べて旅人へ送られたものと考えるのが普通です。「文学的」に考えればそれ以外の解釈は成り立ちようがありません。
つまりは、「筑紫歌壇」という文学仲間の中で交わされた書簡だと見るのが一般的なのです。書簡に添えられた3首の内容を見てもそれ以外には考えられません。
しかし、学者というものは厄介なもので、その当然の見方に対して、最後の「謹みて啓(まを)す」を根拠として疑義を呈するのです。
何故かと言えば、中国の政治体制を手本として律令体制を構築しようとしていた奈良時代初期の官人にとって「律令」の規定には絶対的な重みがあったからです。どいうことかというと、「養老公式令7」においては公式文書で使われる形式が厳密に決められていて、「啓式」と呼ばれる「謹みて啓(まを)す」という言い回しは、皇太子、もしくは皇后のみに許される書式だと明確に決められている事を指摘するのです。
ですから、その「啓式」の規定にあてはまれば憶良が書簡を送った相手は皇太子、もしくは皇后と言うことになります。
確かに、憶良は首皇子の家庭教師をしていたことがあるのですが、この手紙を送った天平2年にはすでに皇太子は天皇に即位をして聖武天皇となっています。さらに言えば、憶良が光明皇后にこんな手紙を送ることなどは考えられないのです。
書簡の内容から言えばその宛先は旅人以外には考えられないのですが、そうなると、憶良ほどの教養人が正しい書簡の書き方も知らなかったのかという話になってくるのです。
令の規定と現実の運用の違い
そうなると、問題は「令」によって定められている規定が現実問題として何処まで徹底して運用されていたのかと言うことが問題になってきます。そして、それは文学的話題と言うよりは考古学を中心として歴史学の問題と言うことになってしまいます。
まずは、注目すべきは奈良時代の遺跡から発掘された木簡などの資料が重要になってきます。
結論から言えば、「謹みて啓(まを)す(謹啓)」という表現は令の規定にもかかわらず目上の者に対する謙遜した表現として一般的使われていたようなのです。
例えば、万葉文化館の近くにある飛鳥池遺跡からは飛鳥寺の僧侶に宛てたものと思われる木簡から「謹啓」という表現がされているものが見つかっています。同じような木簡は平城京の遺跡からも見つかっているようです。
また、正倉院文書の中にも大津大浦という人物が東大寺の貴人と記した相手に対して「謹啓」という表現を使っている文書が見つかっています。
おそらく、「謹啓」というのは差出人に対して非常に丁寧なものの言い方として「令」の規定を乗りこえて一般化していったようなのです。
そして、その表現を筑紫の国守である憶良が使っている相手となれば太宰府の長官である大伴旅人以外には考えられないのです。
ただし、面白いのは、そこまで丁寧な物言いをしながら、肝心の書簡の内容はかなりくだけたものとなっているのです。そして、そのくだけ方から、筑紫歌壇の性格のようなものが透けて見えてくるのがこの5月の講座の魅力だったのです。(続く)