前回は、「謹啓」というて非常に丁寧な言葉遣いをしながら、、肝心の書簡の内容はかなりくだけたものとなっていると述べました。
今回は、そのアンバランスの部分を見ていきたいと思います。
憶良、誠惶頓首(せいくわとんしゆ)、謹みて啓(まを)す。
憶良聞かく「方岳(はうがく)の諸侯と都督刺史(ととくしし)とは、並(とも)に典法(てんぱふ)に依りて、部下を巡行して、その風俗を察(み)る」と。
意(こころ)は内に多端に、口(ことば)は外に出し難し。
謹みて三首の鄙(いや)しき歌を以(も)ちて、五蔵の欝結(むすぼほり)を写(のぞ)かむと欲(ねが)ふ。
まず、「憶良聞かく」という表現なのですが、この基本形は「臣聞かく」であって、一般的には臣下が天皇に対して何かを申し上げるときに使われる表現だそうです。ただし、「謹啓」のように公式文書でその使い方が規定されているほどではないので、目下の者が目上の者に対して何かを言上するときにも使われたようです。
そして、この書簡文は「憶良聞かく」で始まって「天平二年七月十一日 筑前国守山上憶良謹みて上(たてまつ)る」と締めくくられますから、やはり、これはどう読んでも憶良から太宰府の長官である旅人に宛てて送られたものとしか思えないのです。
そして、ここから分かることは、どうやら旅人は太宰府の長官として松浦を含む肥前国を巡行したのですが、その巡行に憶良は同行できなかったようなのです。
「方岳(はうがく)の諸侯と都督刺史(ととくしし)とは」というのは理解しづらい表現なのですが、旅人が部下である「国守」たちを引き連れて国内の巡行を行ったことを憶良はお得意の漢籍の知識を使って「中国風」に表現したもののようです。
「方岳(はうがく)の諸侯」の「方岳」とは中国の四方を取り囲む泰山、衡山、華山、恒山の事ですから、「方岳(はうがく)の諸侯」とは諸国の君主のことを意味します。「都督刺史(ととくしし)}の「都督」は魏の時代に置かれた幾つかの州をたばねて監督する役所のことで、「刺史」は漢や唐の時代にに置かれた地方長官のことです。
つまりは、太宰府の長官である旅人が国守を引き連れて肥前国を巡行したことを中国風に表現したものなのです。
どうも、こういうあたりは、憶良という人のイメージを考える上では重要なポイントかもしれません。彼は子供や貧しいものに心を寄せた歌人と言うよりは、中国文化に精通した高級官僚であり、その知識を至るところで披露したがる人でもあったようなのです。
続く「典法(てんぱふ)に依りて」とは律令の定めにしたがってということで、国内巡行は国守の職務として定められた義務であったことは憶良の「惑へる情を反さしむるの歌 巻五 800~801番」を詠んだときに詳しくふれておきました。
問題は、旅人が国守を引き連れて国内巡行を行ったときに、何故か憶良は同行できなかったようで、さらにその巡行の時に「松浦川で遊ぶの序と歌」を詠んだこともあって、その事を非常に口惜しく思ったことが『憶良聞かく「方岳(はうがく)の諸侯と都督刺史(ととくしし)とは、並(とも)に典法(てんぱふ)に依りて、部下を巡行して、その風俗を察(み)る」と。」の最後の「と」一文字に込められているのです。
そして、その口惜しさは「意(こころ)は内に多端に、口(ことば)は外に出し難し。」なのです。
同行できなかった事実を前にして、胸の中に思うことは多く言葉に表現することも難しいと拗ねてみせているのです。
しかしながら、ここで二つめの疑問が提出されることになります。
それは「筑紫歌壇」の盟友とも言うべき憶良を旅人はどうして同行させなかったのかという問題です。
吉原先生によれば、この疑問に対して幾つかの説が今まで提出されているようで、大まかに分類すると以下の5つのパターンに分類されるとのことです。
- 筑前国守であった憶良が管轄外の松浦(肥前国)に同行することは出来なかった
- 自分の管轄外の地域に出かけることは刑罰の対象となる恐れがあった
- 実際には憶良も同行したのだが、文学的営為として同行しなかったことにして歌を詠んだ
- 行こうと思えば行けたが、日々の忙しさに取り紛れて機会を逸した
- 憶良の管轄する筑前国を巡行するときと時期が重なったので同行できなかった
学者というものは、一見すればどうでもいいようなことに対してもあれこれ考えるものだと感心させられます。
しかし、吉原先生によれば、国守の国内巡行というのは国の風俗を視察するだけでなく、天皇の名代としてその国の民から服属することを意味する儀礼を受ける場でもあったことを考えればいけないという指摘がありました。
つまりは、筑前国守の憶良が肥前国の巡行に同行しなかったのは当然だったと言う以上に、法的には許されなかったというのです。
何故ならば、国守はその支配地域においては天皇の名代であり、それ故に国守の国内巡行は天皇の名代として服属儀礼を受ける行為であり、そこに他国の国守が参加するというのはあり得ないからです。
ですから、中国の法律ではその禁を破ったものには「「杖一百」、つまりは「百叩きの刑」が科されると記されているほどなのです。
天皇や皇帝の名代でもないものが、その国の民から服属儀礼を受けるなどと言うことは律令体制下では絶対に許されないことなのです。
ですから、「令集解」という「令」の注釈書にも、国守の国内巡行を行うときの決まりが詳しく解説されていて、そこでも「国守」不在の時はナンバー2の「介」が代行することは許されるが、それ以下の「掾」が行うことは許されないと記されているのです。
また「守」も「介」も不在の時はすぐに上級官庁に報告して指示を待てとされています。
さらに、やむを得ない事情が重なってナンバー3の「掾」が国内巡行を行った事例もあるが、それは「劣った」「穴案」として「掾以下不合也」と銘記されているのです。
旅人は太宰府の長官という「国守」を束ねる地位にある人物ですから、肥前国守とともに天皇の名代として服属儀礼を受けることには問題はないのですが、その場に肥前国とは全く関係のない「筑前国守」の憶良が同席することはあり得ないのです。
そして、極めて優秀な官僚でもあった憶良がそのことを理解していないはずはないのです。
それを前提として「憶良聞かく「方岳(はうがく)の諸侯と都督刺史(ととくしし)とは、並(とも)に典法(てんぱふ)に依りて、部下を巡行して、その風俗を察(み)る」と。意(こころ)は内に多端に、口(ことば)は外に出し難し。」という一文を読めば、それはお役所の公式文書とは全く性格の異なる、歌仲間の間でかわされた軽口を含んだ私信であることが伺われるのです。
おそらくは、憶良は旅人たちが松浦川のほとりで歌の集まりを持って「松浦川で遊ぶの序と歌」を詠んだことを知ったのでしょう。そして、そこに自分は同席できないことは十分に理解はしているものの、同じ歌仲間としては悔しさが募って、このような私信となったのでしょう。
ですから、憶良の軽口はこれに続く「五蔵の欝結(むすぼほり)を写(のぞ)かむと欲(ねが)ふ」という思いで添えた3首でその本領がますます発揮されることになるのです。
つまりは、松浦川の集まりに同席できなかったことは、憶良にしてみれば内蔵がねじくれるほどに口惜しかったのです。(続く)