万葉集を読む(54)~(山上憶良)「山上憶良の松浦の歌 巻5 868~870」(3)

憶良が書簡に沿えた3首は、その字面だけを見たのでは真意はなかなか理解しづらいものです。
何故ならば、その前提としての「伝承」に対する理解が必要だからです。
では、もう一度憶良が書簡に沿えた3首を確認しておきます。

松浦県佐用比売(まつらがたさよひめ)の子が領巾振(ひれふ)りし山の名のみや聞きつつ居(を)らむ(巻5 868)

帯日売(たらしひめ)神の命(みこと)の魚釣(なつ)らすと御立(みた)たしせりし石(いし)を誰(たれ)見き〔一(ある)は云はく、鮎(あゆ)釣ると〕(巻5 869)

百日(ももか)しも行かぬ松浦路今日(まつらぢけふ)行きて明日は来(き)なむを何か障(さや)れる(巻5 870)

結論から言えば、これは旅人が憶良に示したであろう「松浦川に遊ぶの序と歌」の内容に対する憶良なりの軽口を含んだ「異議申し立て」のようなのです。
まず最初の「松浦県佐用比売(まつらがたさよひめ)の子が領巾振(ひれふ)りし山」の背景には「肥前国風土記」に記された「伝承」が踏まえられています。

ぼちぼち紫陽花のシーズンでしょうか

その伝承によると宣化天皇の時に大伴旅人の祖先にあたる「大伴の狭手彦(さてひこ)」が肥前国に派遣され、そこから海を渡って任那を鎮め百済を助けたと記されているのです。
そして、篠原の村というところで「弟日姫子(おとひひめこ)」と結婚をしたものの、任那に赴くために別れなければいけない日ががやってくるのです。
「大伴の狭手彦(さてひこ)」はその別れに際して姫に鏡を贈ったもののその紐が切れて川に沈んだのでその地を鏡の渡りと言うようになり、さらには船出をした「狭手彦」を見送るために「弟日姫子(おとひひめこ)」は山に登ってひれを振って神霊を呼び寄せたので、その山のことを「褶振り(ひれふり)の峰」と呼ぶようになったというのです。

つまりは、「松浦県佐用比売(まつらがたさよひめ)の子が領巾振(ひれふ)りし山の名のみや聞きつつ居(を)らむ」とは「佐用比売が領巾を振ったという山の名前を聞いただけですごしたのですか」と言っているのです。
つまりは、松浦という地は旅人の先祖にあたる「狭手彦」の伝承が伝えられている地であるのに、それを詠まないで中国の小説などからインスパイアされた仙女の歌なんて詠んでいるだけでいいのですかと嫌みを言っているのです。

ただし、その解釈に問題が無いわけではなくて、徳に、風土記では「狭手彦」の結婚相手が「弟日姫子」となっているのに、憶良の歌では「佐用比売(さよひめ)」となっていることです。
しかし、おそらくはこの「弟日姫子」と「佐用比売」は同一人物と考えていいようです。その理由としては幾つか説があるのですが、肥前国風土記ではその「弟日姫子」は「狭手彦」と分かれた後に、「狭手彦」に化けた蛇にさらわれて命を落とすという「怪婚談(いわゆる三輪山型の怪婚談)」につながっていくので、それを忌むために別名を用いたのだろうという説が有力です。

岸和田蜻蛉池公園の紫陽花

それに続く2首めも同様の嫌みです。

「帯日売(たらしひめ)神の命(みこと)の魚釣(なつ)らすと御立(みた)たしせりし石(いし)を誰(たれ)見き」はいうまでもなく、神功皇后の三韓征伐に関わる伝承が背景にあること這うまでもないことで、「神功皇后が鮎を釣るためにお立ちになった石を誰も見なかったのですか」と言っているのです。
言うまでもなく、憶良自身は「鎮懐石の歌 巻五 813~814番歌」を詠んでいるのですから、ここでも仙女の話なんかにうつつを抜かしているのではなくて、どうして神功皇后の伝承につながるあれこれをを歌に詠まなかったのですかと異議を申し立てているのです。

もちろん、憶良と旅人では身分に大きな違いはありますから言葉遣いは丁寧です。しかし、その内容はともに都にいる連中には負けないような歌を作ろうという「筑紫歌壇」の仲間という意識が貫かれているのです。

そして、最後の「百日(ももか)しも行かぬ松浦路今日(まつらぢけふ)行きて明日は来(き)なむを何か障(さや)れる」には今日行って明日にはかえってこえる松浦の地であるのに、そこへ自分自身がいって、その地で詠むべきであった歌を詠めなかった残念さというか、無念さのようなものが滲みでているのです。

もちろん、それは前回確認したように、筑前国守であった憶良が肥前国の国内巡行に同行できないことは律令体制下では覆すことのできない事実でした。そして、その事は優れた高級官僚である憶良にしてみれば分かりすぎるほどに分かりきっていたことでした。
しかし、そうであっても「百日(ももか)しも行かぬ松浦路今日(けふ)行きて明日は来(き)なむ」と、100日もかかるのでもなく二日もあれば往復できる松浦に行けないという「事実」への憤りにを「何か障(さや)れる」、いったい何の障りがあるのだと怒りをぶちまけているのです。
そう言うことを踏まえてこの憶良の三首を詠めば、、太宰府の長官と一国の国守という身分の差を超えてともに「歌」の道を目指そうとした「筑紫歌壇」の姿が浮かび上がってくるのです。

そして、万葉集の巻5では、これに続いて「褶振り(ひれふり)の峰」の伝承を伝える「序」に続いて「松浦佐用姫の歌(871番~875番)」が収録されているのですが、それが憶良の要望に応えて旅人が歌ったものだとは言いかねる部分があるのですが、そのあたりの詳細は来月の講座ではっきりすることでしょう。(終わり)