私が好きな万葉歌(4) 庭に立つ麻手(あさて)刈り干し布さらす東女(あづまをみな)を忘れたまふな

万葉集を本気で学びなおそうと思って明日香の万葉文化館の講座に通い始めてから1年が経ちました。振り返ってみれば、それは文化館としても「巻1」から始めた講座がちょうど「巻5」に入った時期でした。
今でも思い出しますが、その時の講座は山上憶良の「日本挽歌」であり、それは中国の古い文献などに典拠を持った驚くほどに深い内容を持ったものであり、ちょっとしたカルチャーショックを覚えたものでした。そして、それ故に、これは真面目に講座に通わなければ到底独学で理解できるものではないことを思い知らされた講座でした。
おかしな言い方になるかもしれませんが、その「難解さ」さが、その後も明日香に通い続けるきっかけとなったのでした。

しかし、講座に通い始めて1年が経過すると、万葉集の中でも「巻5」というのが極めて特異な立ち位置にある作品群であることに気づいてきました。
それは、大伴旅人と山上憶良が中心となって、太宰府を拠点として生まれた「筑紫歌壇」とも呼ぶべき先進的な文化人によって生み出された歌集をまとめたものだったからです。ですから、その大部分が漢文で書かれた「序」などは当時としては最先端の中国文学への造詣がなければ理解できるような代物ではなく、ましてやそこから1300年近くも経過した現代人にしてみれば、いくら古典の文法に精通していてもそれだけは歯の立つような作品群ではなかったのです。

しかし、「巻5」をのぞけば、その様な特異な「難解」さを持った作品は少数派です。その事も最近になって漸く気づくようになりました。
確かに、「長歌」などと言う馴染みのないジャンルでは戸惑いを覚えることはあるのですが、通常の短歌形式であればその様な難解さはほとんどないのです。
ですから、スタートが「巻5」であったことはこの上もない幸運であったと言わざるを得ません。何故ならば、その「難解」さゆえに真面目に学ぶという気構えと覚悟を与えてくれたからです。

紫陽花の季節ですね(^^v

藤原宇合大夫(ふじわらのうまかひのまへつきみ)遷任して京(みやこ)に上る時、常陸娘子(ひたちおとめ)の贈る歌一首
庭に立つ麻手(あさて)刈り干し布さらす東女(あづまをみな)を忘れたまふな 〔巻4:521〕 常陸娘子

好きな歌として前回紹介した「信濃なる千曲の川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ」が初々しい「初恋」を思わせる歌だとすれば、これはもう少し成熟した「大人の女」の歌です。
前書きの部分に記されている「藤原宇合(ふじわらのうまかひ)」とは藤原不比等の三男であり、その後「藤原式家」の祖となった人物ですから大変な高級貴族です。
その「藤原宇合」は養老3年(719年)に常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任ぜられて東国へと下ります。

時代が下ると、国守に任命されても本人は都に居座るのが一般的になるのですが、律令体制を築き始めた奈良時代初期では国守に任命されれば、「藤原宇合」ほどの高級貴族でも現地に赴いたのです。
そして、具体的な年は不明なのですが、その「藤原宇合」に都に帰ってこいと言う「(おそらくは)待ちに待った」命令が届いて、別れの宴が行われたのでしょう。この「庭に立つ麻手(あさて)刈り干し布さらす東女(あづまをみな)を忘れたまふな」という歌は、おそらくその別離の宴の中で「常陸娘子」から「藤原宇合」に対して詠まれた歌なのです。

当然の事ながら、この「常陸娘子」とはどういう人物なのかは全く不明であり、中西進先生は「遊女」ではなかったかと推測されています。
しかし、国守が無事に務めを果たして都に帰るときに贈る歌は、「遷任別離の歌」としてカテゴリー化できるほど数多く残されていますから、それは一種のお約束の儀礼であった可能性が高いと思われます。ですから、この有名な歌も「常陸娘子」というある特定の女性が歌った歌と言うよりは、そう言う儀式の中で歌われる「伝承歌」のようなものとして引き継がれてきたものと考えた方が妥当かもしれません。

おそらく、これに似たような歌を詠った女性がいたのでしょう。
そして、それが好評だったので次第に引き継がれていくようにあり、その中で表現も洗練されて、最終的な完成形として定まったものが「万葉集」の中に収録されたのでしょう。
もちろん、「藤原宇合」と「常陸娘子」との間にロマンスがあり、そのロマンスが「遷任別離」というどうしようもない形で終わりを告げて、その悲しみをこのような歌に託したと考える方がロマンティックなのですが、遊女とも考えられる「常陸娘子」と「藤原宇合」とでは、おとぎ話にもならないほどの身分の違いがあります。

岸和田市の蜻蛉池公園の紫陽花

それでも、やはりこの歌は詠むものの胸を打ちます。

それはひたすら人が生きていくために必要な「生産活動」に従事する東女の対極に、その様な生産活動からは一切解放されてひたすら美しく自らを飾っているであろう都の女性がイメージされているからです。そして、高級貴族である「藤原宇合」が都に帰ってしまえば、そんな生産活動に従事していた女のことなどはすっかり忘れてしまって美しい都の女に心を寄せてしまうことも分かり切っていることでした。
しかし、この歌の凄みは最後に「東女を忘れたまふな」と言い切っているところです。そこには「働く女」の誇りがあふれ出しているのです。

そう言えば、こんな事を言った人がいました。
「白馬に乗った王子様が現れても、その王子様はあなたと結ばれることはありません。では王子様は誰と結ばれるのでしょう。それは、あなたが知らない国のお姫様と結ばれるのです。」

そんな時に、「庭に立つ麻手(あさて)刈り干し布さらす東女(あづまをみな)を忘れたまふな」という歌を思い出せば少しは元気がわいてくるのではないでしょうか。