私が好きな万葉歌(5) 我(わ)が情(こころ)焼くも吾(わ)れなり愛(は)しきやし君に恋ふるも我(わ)が心から

万葉集と言えば「恋の歌」というのが一つの定番です。何しろ、作品集全体が「相聞」「挽歌」「雑歌」という部立てがされているのですから、「恋の歌」が多くなるのは当然です。
そして、その「恋」の形も多様です。

一番最初に好きな歌として紹介した「信濃なる筑摩の川の細石(さざれし)も君し踏みてば玉と拾はむ」はおそらく初恋の焦がれるような思いを歌に託したものでしょう。
「庭に立つ麻手(あさて)刈り干し布さらす東女(あづまをみな)を忘れたまふな」は、それと比べればはるかに成熟した「大人の恋」という雰囲気が漂います。
そして、今回どうしても紹介したいのが「嫉妬の歌」です。
あまりにも有名な歌ですから、ご存知の方も多いかと思われます。

我(わ)が情(こころ)焼くも吾(わ)れなり愛(は)しきやし君に恋ふるも我(わ)が心から 〔巻13:3271〕 作者不詳

ただし、この歌はこれだけを詠んでみたのではその「嫉妬」の凄みは伝わってきません。
実は、これは「長歌」に対する「反歌」なのであって、その「長歌」の方こそが凄まじいのです。

さし焼かむ 小屋(をや)の醜屋(しきや)に かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷きて 打ち折らむ 醜(しこ)の醜手(しきて)を さし交(か)へて 寝(ぬ)らむ君ゆゑ 茜(あかね)さす 昼は終(しみら)に ぬばたまの 夜(よる)はすがらに この床の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも 〔巻13:3270〕 作者不詳

我が心焼く(春日大社)

ここにはありとあらゆる悪口雑言が連ねられています。おそらく、古文にそれほど慣れていない人でも、一読するだけでその「凄み」のようなものは伝わってくるはずです。つまりは、それほどにパワーに満ちた歌なのです。

状況としては、かつては愛し合った男が自分を捨て去って、今まさに別の女と愛をかわし合っているのです。そして、その愛をかわし合っている小屋を「さし焼かむ」、つまりは焼き払ってしまいたいと叫んでいるのです。
それにしても、その後に続く言葉の激しさは尋常ではありません。

何しろ、その小屋というのは、焼き払ってしまいたいような醜屋(しきや)、つまりはみすぼらしい小屋であり、そして、その小屋には「かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷きて」、いつ捨ててしまってもいいようなみすぼらしい破れたような薦もがしかれていると罵っているのです。そして、そんな穢らわしい場所で、自分が愛したあの男は、へし折ってしまいたいような穢い手を互いにかわし合って別の女と愛をかわし合っているだと嘆いているのです。
ちなみに、文法的に言えば「らむ」は「現在推量」なので、今まさに自分が愛したあの男は別の女と今まさに愛をかわし合っているんだろう!!というイメージになるようです。

まさに嫉妬に狂った激情の発露です。

そして、「打ち折らむ 醜(しこ)の醜手(しきて)を さし交(か)へて 寝(ぬ)らむ君ゆゑ」に、つまりは、そう言うあなたの姿がありありと目の前での出来事のように思い出されるがゆえに「茜(あかね)さす 昼は終(しみら)に ぬばたまの 夜(よる)はすがらに この床の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも」と嘆かずにはおれないのです。
嫉妬に狂った私は、そう言う愛する男の姿がありありと思い浮かんでくるたびに、茜色の昼の一日も、暗黒の夜も、この床がぎしぎしと音を立ててなるほどに嘆かざるをえないのです。

おそらく、これほどに「嫉妬」という感情をあからさまに読み上げた歌は他にはないのではないでしょうか。
ところが、そこからワンクッション置いて「反歌」の方になると少しトーンが変わってきていることに気づきます。

我(わ)が情(こころ)焼くも吾(わ)れなり愛(は)しきやし君に恋ふるも我(わ)が心から

それは、あらん限りの激情を迸らせた「長歌」に対して、「反歌」の方ではそう言う「激情」を何処か醒めた目で客観視しようとしている雰囲気へと転じています。それは一種の自己省察です。
嫉妬に狂うのも自分の「心」だが、そう言う嫉妬に狂わせる男を愛しく思うのも自分の「心」なのかと、どこかで「どうしようもない自分の心」を突き放しているような雰囲気が「反歌」の方には漂っているのです。

おそらく、こういう「感情」というのはじっと内にしまい込んで耐えてはいけないのでしょう。
辛いとき、苦しいとき、憎らしいときは、恥も何もかも捨ててそれをぶちまけて、それらをぶちまけきった果てにおいて初めて少しは冷静さがかえってくるのかもしれません。

おそらく、こんな風に嫉妬をぶちまければ「だから嫌われるんだよ!」と言われてしまうかもしれません。
しかしながらこの歌は、そう言うみっともなさみたいなものをぶちまけることの大切さを、取り澄まして生きることを強いられている現在の私たちに教えてくる歌なのかもしれません。