万葉集を読む(55)~「松浦佐用姫の歌 巻5 871~875」(1)

「令和」に伴う万葉集への関心の高まりは一時的なものではないようで、万葉文化館で毎月行っている講座への参加者は減る気配がありません。4月以降も通常通りの参加を想定していたので思わぬ参加者の増加に用意した資料が足りなくなったり椅子をの数を増やしたりと大わらわだったのですが、6月の講座では最初から今までの倍にあたる300名の参加を想定して準備をしていたようです。
おかげで、資料を増し刷りしたりするような騒ぎにはならなかったのですが、それでも用意された席はびっしりと参加者で埋まっていました。

「令和」との関係で表面的な万葉集への騒ぎは沈静化していくでしょうが、それをきっかけに「万葉集」の魅力に気づかされて度真面目に勉強してみようと考えてくれた人は確実に定着しているようです。
実は、6月に入ってから再び体調が悪くなって、この講座にも参加できるのかどうか不安だったのですが、個人的にはどうしても参加したかったのではじめて妻にも付き添ってもらいました。(ただし、この1週間ほどでかなりもとの体調に戻りつつはあります。)
そ思わぬ形ではじめて参加することになった妻も、この「講座」の熱気には驚いていたようです。

さて、6月の講座は「松浦佐用姫の歌」で、講師は大谷歩先生でした。
言うまでもなく、これは5月の講座で取り扱った「山上憶良の松浦の歌(山上憶良の書簡)」と強いつながりを持った作品です。

まずは、作品の方を紹介しておきます。

大伴佐提比古(おほとものさでひこ)の郎子(いらつこ)、特に朝命(てうめい)を被(かがふ)り、使を蕃国(とつくに)に奉(うけたまは)る。
艤棹(ふなよそひ)して言(ここ)に帰(ゆ)き、稍蒼波(ややにさうは)に赴く。
妾(をみなめ)松浦〔佐用比売〕、この別るるの易きを嗟(なげ)き、彼(そ)の会ふの難きを嘆く。
即ち高山の嶺(みね)に登りて、遙かに離れ去(ゆ)く船を望み、悵然(うら)みて肝(きも)を断ち、黯然(いた)みて魂(たま)を銷(け)す。
遂に領布(ひれ)を脱ぎて麾(ふ)る。傍(かたはら)の者涕(ひとなみだ)を流さずといふこと莫(な)し。
これに因(よ)りてこの山を号(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)と曰(い)ふ。

及(すなは)ち、歌を作りて曰はく

鏡山山頂にある佐用姫像(顔が結構恐い)

この作品にはいわゆる「題詞」がついていません。
「題詞」とは、例えば「令和」の典拠となった「梅花の宴」などには「梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序」というような説明がついていて、そのような全体の説明にあたる部分を「題詞」と呼んでいるのです。
ところが、この「松浦佐用姫の歌」ではそう言う「題詞」にあたるものはなく、いきなり漢文で「大伴佐提比古(おほとものさでひこ)の郎子(いらつこ)、特に朝命(てうめい)を被(かがふ)り・・・」という形で始まるのです。

大谷先生は、「細かいことだが、題詩を欠いた形でいきなり始まる漢文を『序文』と呼ぶには抵抗を感じるので、個人的にはこの部分を『前文」と呼ぶことにする」と断っていました。
このあたりは、細かいことなのですが、学者的な緻密さのあらわれだと感じました。

そして、この「前文」に続いて以下の5首が続きます。

遠つ人松浦佐用姫夫恋(まつらさよひめつまごひ)に領巾(ひれ)振りしより負(お)へる山の名(巻5 871)

後(のち)の人の追ひて和(こた)へたる

山の名と言ひ継げとかも佐用姫(さよひめ)がこの山の上(へ)に領布(ひれ)を振りけむ(巻5 872)

最後(いとのち)の人の追ひて和へたる

万代(よろづよ)に語り継げとしこの岳(たけ)に領布(ひれ)振りけらし松浦佐用姫(巻5 873)

最最後(いといとのち)の人の追ひて和(こた)へたる二首

海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領布(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫(巻5 874)

行く船を振り留(とど)みかね如何(いか)ばかり恋(こほ)しくありけむ松浦佐用姫(巻5 874)

なんだかいろんな人が「追ひて和へ」ていくという複雑な構造をしているのですが、整理してみればこの作品は4つの部分に分かれていることが分かります。

  1. まずは漢文で書かれた「前文」とそれに添えられ「歌」(前文と871番)
  2. 次に、その「前文」と「歌」に和えた歌(後の人の追ひて和へたる:872番)
  3. さらに、それを受けて和えた歌(最後の人の追ひて和へたる:873番)
  4. さらに、さらに、それらを受けて和えた歌2首(最最後の人の追ひて和へたる二首:874番~875番)

まずは「前文」において「松浦佐用姫」に関わる伝説を紹介して、そこへ「領巾麾の嶺」と呼ばれることになった経緯を歌にしています。
そして、そこを出発点として、次々といろいろな人が歌を和えていくことによって物語世界を広げていくと言う構造になっているのです。

ですから、それは自然発生的に連鎖していったのではなくて、外形的にその様なスタイルを装いながら、そこにはある特定の強い文学手営為が存在していて、全体で一篇の文学的世界をつくり出そうという意志を感じさせます。
大伴旅人と言う歌人は、実は本人が歌ったものであるのに「後(のち)の人の追ひて和(こた)へたる」という形にして別の人物の作品であるかのように装いながら独自の文学世界を作ると言うことをよく行っていました。
それはまさに大伴旅人の得意技とも言うべき手法であり、「梅花の宴」等でもその手法が使われていました。

浮世絵にもなっている佐用姫伝説(日本三大悲恋・・・だとか)

そして、これに先立って文学上の盟友である山上憶良から、「松浦まで行きながらどうしてあなたの祖先である大伴佐提比古のことを取り上げないのですか」と言われています。
ですから、この作品はその挑戦への回答だと考えれば、「作者不詳」の形をとりながら、実は大伴旅人の作品だという可能性がまず最初に浮上してきます。

しかし、さらに穿った見方をすれば、憶良が旅人に対して「松浦まで行きながらどうしてあなたの祖先である大伴佐提比』のことを取り上げないのですか」と言ったことに重ねて、例えばこのようにして「松浦佐用姫」のことを歌うことも出来たはずですと言う、さらなるだめ押しという見方も可能です。
つまりは、山上憶良作者説です・
もちろん、そんな穿った見方は捨てて、ここに書かれているように、「前文」とそれに添えられた「歌」に対して、異なる3人の人物が後から和えたものだという素直を見方をしてもなんの問題もありません。

と言うことで、この作品に関しては「作者は誰なのか?」と言うことは多くの人の興味をひいてきたようで、それに関する論文も数多いそうです
しかしながら、どんなに仮説を提出しても、作者に関わる記述が本文中には一切ありませんし、それに関連するような資料も発見されていませんから、議論は百出するけれども、最終的には作者に関しては決めがたいというのが「学問的結論」となるようです。

とは言え、素人的気楽さならばかなり自由にに空想の羽が伸ばせますので、そのあたりの事にもふれながら一つずつ丁寧に読んでいきたいと思います。(続く)

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