万葉集を読む(56)~「松浦佐用姫の歌 巻5 871~875」(2)

まずは「前文」から詠んでいきます。
サラッと読めば、有名な「佐用姫伝説」について述べただけのように見えるのですが、細かい文章表現などに着目していくと、それは旅人や憶良レベルの漢籍への教養がなければ書けない文章であることに気づかされます。

大伴佐提比古(おほとものさでひこ)の郎子(いらつこ)、特に朝命(てうめい)を被(かがふ)り、使を蕃国(とつくに)に奉(うけたまは)る。
艤棹(ふなよそひ)して言(ここ)に帰(ゆ)き、稍蒼波(ややにさうは)に赴く。
妾(をみなめ)松浦〔佐用比売〕、この別るるの易きを嗟(なげ)き、彼(そ)の会ふの難きを嘆く。
即ち高山の嶺(みね)に登りて、遙かに離れ去(ゆ)く船を望み、悵然(うら)みて肝(きも)を断ち、黯然(いた)みて魂(たま)を銷(け)す。
遂に領布(ひれ)を脱ぎて麾(ふ)る。傍(かたはら)の者涕(ひとなみだ)を流さずといふこと莫(な)し。
これに因(よ)りてこの山を号(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)と曰(い)ふ。

「大伴佐提比古」は大伴一族の祖にあたる人物であり、「日本書紀」にもその名前が登場します。
大谷先生が用意してくれた資料によると、例えば、「宣化天皇2年10月の条」では「新羅が任那を侵略したので、大伴金村に命じてその子である磐と佐提比古とを朝鮮半島に派遣して任那をたすけさせた」という記述があるようです。
さらに、「欽明天皇23年8月条」には「天皇は大伴連狭手彦を遣わし、軍兵数万人を率いて高麗を征討させた」とも記述されているそうです。

つまりは、「大伴佐提比古」とは武門の一族である大伴氏を代表する人物であり、主に朝鮮半島で活躍した武人だったようです。
ですから、この「大伴佐提比古(おほとものさでひこ)の郎子(いらつこ)、特に朝命(てうめい)を被(かがふ)り、使を蕃国(とつくに)に奉(うけたまは)る。」というのは、宣化天皇の時か欽明天皇の時か、どちらかと言うことになるのですが、「使を蕃国に奉る」の「蕃国」には「自らに従属する国」という意味合いがありますから、おそらくは「任那」のことを意味していると見るのが一般的なようなのです。

ですから、この「佐用姫伝説」は宣化天皇の命によって佐提比古が任那に向かって船を出したときのことだと言うことになります。

領布麾の嶺(現在の鏡山)からの展望

それに続く「艤棹(ふなよそひ)して」とは「船団を整えて」という意味になるのですが、この「艤棹」の典拠は「文選」にも納められている「江の賦一首」などにもあるように、漢詩の中ではよく使われる表現だとのことです。
また、「別るるの易きを嗟(なげ)き、彼(そ)の会ふの難きを嘆く」は中国の小説である「遊仙窟」において、物語の主人公と仙女の別れの場面においてほぼ同じ表現が出てくるそうです。言うまでもなく、この「遊仙窟」は旅人の「松浦河に遊ぶの序と歌」にインスピレーションを与えた作品でした。

なお、佐用姫のことを「妾(をみなめ)」としているので、今の感覚からこの言葉を見れば彼女は佐提比古の「側女」のように受け取られるのですが、万葉の時代では一般的には「女性」をあらわすだけの言葉だったようです。しかし、伝承によっては佐用姫と佐提比古は結婚していたという話もありますし、別れに際しての彼女の振るまいと悲しみを見れば、ただの女性ではなくて、特別な関係にあったことは間違いはいないようです。

彼女はここで佐提比古と別れてしまえば再びあうことが難しいことを悟り、すぐに高い山の頂に登って遠く去りゆく船団を眺めます。
そして、その時の彼女の悲しみを「悵然(うら)みて肝(きも)を断ち、黯然(いた)みて魂(たま)を銷(け)す」と表現しているのですが、この表現の背景にも漢籍は潜んでいます。

宋玉の「神女の賦」には「悵然として志を失う」という表現があり、江文通の「別の賦」には「黯然(あんぜん)として銷魂(しょうこん)するものは、唯別れのみ」という表現があるそうです。
おそらく、この前文の作者はそう言う漢籍の表現を念頭に置いて「佐用姫」の別れに際しての心情を「悵然(うら)みて肝(きも)を断ち、黯然(いた)みて魂(たま)を銷(け)す(失意のあまりに肝を断ち、目の前も暗く魂を失うほどだった)」と表現したのでしょう。

そして、彼女は「遂に領布(ひれ)を脱ぎて麾(ふ)る」のです。

肩にかけたショールのようなものが「領布」

この「領布」は今風に言えば肩にかけるショールのようなもので、間違っても着物の袖のようなものではありません。
着物の袖を振るのは「さようなら」の合図ですが、「領布」を振ることには昔から様々な力があるとされていたのです。

例えば、古事記においても蛇の穴に閉じこめられた試練を領布を三度振ることで逃れる説話などとして紹介されています。
そして、それは、時には去っていこうとするものの魂を引き戻す力を持つとも言われていましたから、着物の袖を振るのとは真逆の行為だったのです。
そして、それは確かなもの当時は信じられていたようで、日本書紀の「天武天皇11年3月条」において采女達が「肩布(領布と同じもの」を着用することを禁じた旨が記されているほどなのです。

ですから、「遂に領布(ひれ)を脱ぎて麾(ふ)る」とは、まさに己の全身全霊を傾けて、去っていこうとする佐提比古を引き戻そうとした行為だったのです。
それ故に、その姿に「傍(かたはら)の者涕(ひとなみだ)を流さずといふこと莫(な)し」と言う一文に重みが出るのです。
それは、唯別れを告げる佐用姫の姿に涙しただけではなかったのです。

しかし、「前文」ではそう言う「佐用姫」の心情にはそれ以上深入りすることはなく、最後は「これに因(よ)りてこの山を号(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)と曰(い)ふ。」という「地名の起こり」についての話として締めくくっているのです。
ですから、それを受けた歌も「遠つ人松浦佐用姫夫恋(まつらさよひめつまごひ)に領巾(ひれ)振りしより負(お)へる山の名」という地名に重点をおいた歌になっているのです。
それだけでは、領巾を振ってでも愛する男を引き戻そうとした佐用姫の心情には全く踏み込めていないので、文学作品としては明らかに不十分に過ぎます。
ですから、その不十分さを補うために、この歌に多くの人が追いて和えることによって厚みを増していくという仕掛けになっているのです。

そう考えれば、やはりこの作品はある特定の人物の強い文学的営為によって成り立っていると見るのが妥当なように思われるのです。(あくまでも素人の楽観的な見方ですよ)
そして、その人物は誰なのかと言えば、様々な漢籍での表現を駆使した「前文」を見る限りでは大伴旅人か山上憶良の二人しか浮かんでこないのです。

もちろん、都に行けば、それくらいの教養を持った人物は他にもいるのですが、この「巻5」が旅人と憶良を中心とした「筑紫歌壇」の作品集としての性格を持っていることを考えれば、太宰府の長官であった大伴旅人の周辺の人物しかあてはめることは出来ないのです。
ですから、そのメンバーに限定すれば、この作者不詳の作品は大伴旅人か山上憶良の作品ではないかと言うことになるのです。

次回は、「前文」と「歌」に和えて歌われた4首を詳しく読んででいく中で、さらに作者は誰なのかという問題に踏み込んでいければと思います。(続く)