奈良の明日香村に「万葉文化館」というとても立派な施設があります。とても立派な施設なのですがいつもは殆ど人はいません。
この万葉文化館の駐車場はいつも空いている上に「無料」なので、明日香に車で行ったときはお勧めです。
ちなみに、館内の庭園には万葉集ゆかりの植物が植えられていて、時間が合えばボランティアの方が案内をしてくれます。また、日本最古の貨幣と言われる「富本銭」が発掘された遺跡もみることが出来ます。
さらに文化館の中も特別展示以外は全て無料です。
県立の施設なのですが、何故かしら奈良の施設にはこういう太っ腹なところが多いです。(奈良ではこう言うのを「大仏商法」と言うそうです)
そして、この文化館では「万葉文化館」という名前に相応しく、月に一度「万葉集を読む」という講座を行っています。
当然の事ながら、この講座も無料で事前の申し込みも必要ありません。
一応定員は先着150名となっているのですが、今回初めて参加した雰囲気ではこの数を上回ることはないようです。それに、とても広い会場を使っていますから、150名を超えても参加させてくれるでしょう、・・・きっと。(^^;
男社会の固定観念が抜けきらない「哀しさ」
講座は13時30分開場で14時開講だったので、少し早めの13時15分に文化館に到着しました。
大雨だったのでいつもよりはゆっくり走ったのですが、我が家から50分程度で到着しました。入り口の受付で教えてもらった会場に足を運ぶと、既に20名ほどの方が入り口の前に並んでおられました。
そう言えば、ボランティアの方もこの講座のある日だけが賑わうと言っていました。
それでも、あちこちで大雨警報が出るほどの豪雨の中でこの人出は大したものです。そして、開講の14時頃にはおよそ100名程度の方が参加されている雰囲気でした。
そして、もう一つ驚いたのは、この日の講座を担当された先生でした。
入り口でいただいた資料には「大谷歩」と記されていましたので、何となくお爺さんみたいな方が登場するのかと勝手に想像していました。ところが、14時前に若い女性の方が演壇に上がってこられたので、職員の方が飲み物などの準備をされるんだろうなと思っていると、その女性の方がそのままマイクを持ってお話をはじめられました。(^^;
こういうあたりが、どうしても男社会の固定観念が抜けきらない「哀しさ」ですね。
反省しなければいけません。
そうなんです、当日の講師である「大谷歩」さんとは、お若い女性の方だったのです。
と言うことで、前置きが随分と長くなりましたが、そう言う雰囲気の講座だったのですが、講座に参加しておられる方はほぼ100%、私も含めて全員爺さん婆さんばかりではありましたが・・・。
6月の講座は山上憶良の「日本挽歌」でした。
この「日本挽歌」は万葉集の巻五に収録されていて、一編の長歌と5首の反歌で成り立っています。
まず長歌の方は以下のようなものです。
大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして
息だにも いまだ休めず 年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に 打ち靡き 臥(こ)やしぬれ
言はむ術 為む術知らに 石木をも 問ひ放(さ)け知らず
家ならば 形はあらむを
恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか
にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます
正直言って、全く意味が取れません。(^^;
しかし、この講座では様々な用例などを紹介しながら丁寧に読解してくれます。
まずこの「日本挽歌」と名づけられた「作品群」は、最後に山上憶良が筑前の国守に奉ったと記されていますから間違いなく憶良の作品だと言えるそうです。
この「筑前の国守」とは大伴旅人のことらしくて、さらにはこの歌はその旅人が妻を失った悲しみを慰めるために送られたものだと言うことです。
しかしながら、まず最初の一行目から訳がわかりません。
「大王の 遠の朝廷」と「しらぬひ 筑紫の国」がどうして並列に来るのでしょうか。
しかし、九州を治めるための朝廷の出先機関である「太宰府」の事を「遠の朝廷」と呼ぶことが一般的だと言うことを指摘されると、これが並列に並ぶことにはなんの疑問もなくなります。
なお、大谷先生によると、「遠の朝廷」に続く「しらぬひ」の解釈には2説あるそうです。
一般的なのは「しらぬひ」を「不知火」と解して筑紫の枕詞と見る説です。
もう一つは「しらぬひ」を「しらぬ日」と解して、「どれほどとも知れぬほど長い日を経てたどり着く筑紫の国」と見る説です。
その背景には「ひ」というかなには2種類の「ひ」があって、古代の人々はそれを厳密に使い分けていたと言う事情があるようです。
大谷先生曰く、「たかが枕詞一つと言っても奥が深い」のだそうです。
そして、後に続く旅人の嘆きと後悔を見れば、ここは「どれほどとも知れぬほど長い日を経てたどり着く筑紫の国」と解した方が相応しいかもしれません。
何故ならば、そんな遠方の地に旅人の妻は「泣く子なす 慕ひ来まして」、つまり、泣く子供のように私を慕って妻は付きしたがってきたとなるからです。
旅人はこの太宰府の長官(大宰帥)として派遣されたのです。
それは二度目の九州への派遣であり、既に60歳を超えていた旅人にとっても厳しい旅だったはずです。
そして、半ば左遷とも思えるこの人事に際して旅人は妻(大伴郎女)を奈良に置いていくことにしたようです。
老いた妻にこの長旅は無理だと判断したのでしょう。
しかし、そんな旅人に妻は付きしたがって九州に向かうことを主張します。
それが「泣く子なす 慕ひ来まして」の部分です。
ところが、やはりその長旅が祟ったのか、太宰府につくなり妻はたおれてしまいます。
そのあまりの急さを憶良は「息だにも いまだ休めず 年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に」と表現しています。
こう言うところは現代語に訳してしまうと、そこに込められた悲嘆の思いが希薄になってしまいます。
「息だにも いまだ休めず」「年月も 幾だもあらねば」「心ゆも 思はぬ間に」と3つの言葉を畳みかけるように並べたところに憶良の才能を感じます。
そして、たおれてしまった妻の様子を憶良は「打ち靡き 臥やしぬれ」と表現しています。
これも大谷先生に指摘していただいて分かったことなのですが「靡く」という言葉には「水の中で揺れる水草」のイメージがあるそうです。
ですから、「打ち靡き 臥やしぬれ」には、「水の中でゆらゆらと揺れる水草のようにたおれて寝込んでしまった」とイメージすべきなのだそうです。
こういうあたりのポイントとなる言葉に注意をうながしてくれるのも有り難いことです。
そして、そこまで理解した上でここまでの部分を読んでみれば、旅人を襲った不幸の姿がはっきりと見えてきます。
大王の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして
息だにも いまだ休めず 年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に 打ち靡き 臥やしぬれ
まさに一篇の物語の幕開けを告げるかのような書き出しだと言うことが分かります。(続く)
万葉講座、素敵ですね。
私もリタイアしたら、平日のこういった講座にも参加できるかなあ。
私も退職して分かったことはシニア世代はみんな元気だと言うことです。
ですから、有名な観光地などは平日でも大変な賑わいです。これには、本当に驚いてしまいました。
退職して大切なことは出かけていくべき所とあうべき人を作ることだと言われました。それも過去の仕事とは一切縁の切れたところでです。
そんな事って出来るのかなと思ったのですが、今のこの国にはそう言う場所と人があふれていることがよく分かりました。