万葉集を読む(17)~山上憶良「世間の住り難きを哀しびたる歌 巻五 804~805番歌」(3)

今回は「大夫(ますらを)の 男子(をとこ)さびすと」の部分にはいるのですが、念のためにもう一度「長歌」全体を紹介しておきます。

世の中の 術(すべ)なきものは 年月(としつき)は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種(ももくさ)に 迫(せ)め寄り来(きた)る

少女(をとめ)らが 少女(をとめ)さびすと 唐玉(からたま)を 手本(たもと)に纏(ま)かし 〔或いはこの句あり、いわく、白栲の 袖ふりかわし 紅の 赤裳裾引き いへるあり〕
同輩児(よちこ)らと 手たづさはりて 遊びけむ 時の盛りを 留(とど)みかね 過ぐしやりつれ
蜷(みな)の腸(わた) か黒(ぐろ)き髪に いつの間(ま)か 霜の降りけむ
紅(くれなゐ)の〔一(ある)は云はく、丹の穂なす〕 面(おもて)の上(うへ)に 何処(いづく)ゆか 皺(しは)が来(き)りし〔一(ある)は云はく、常なりし 笑まひ眉引き 咲く花の 移ろいにけり 世間は かくのみならし〕

大夫(ますらを)の 男子(をとこ)さびすと 剣太刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 猟弓(さつゆみ)を 手(た)握り持ちて 赤駒に 倭文(しつ)鞍うち置き はひ乗りて 遊び歩きし 世の中や 常にありける
少女(をとめ)らが さ寝(ね)す板戸を 押し開き い辿(たど)り寄りて 真玉手(またまて)の 玉手さし交(か)へ さ寝(ね)し夜の 幾許(いくだ)もあらねば
手束杖(たつかつゑ) 腰にたがねて か行けば 人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ 老男(およしを)は かくのみならし

たまきはる 命惜しけど 為(せ)むすべもなし

若く華やかな少女達がやがて年老いて髪の毛は白くなり皺がよっていく様子を歌ったのに続けて、当然の事ながら次は若く輝くような「大夫(ますらを)」達が年老いていく様子を描き出します。

憶良がまず始めに描き出す「大夫(ますらを)の 男子(をとこ)さびす」姿はまさに伊達男です。
繰り返す必要はないかもしれませんが「さびす」とは「らしい」という意味で、「大夫の 男子さびすと」とは「大夫の 男子らしくと」という意味になります。

つまりは、大夫が男子らしくとあろうとしてこんな姿をしているというのです。

剣太刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 猟弓(さつゆみ)を 手(た)握り持ちて 赤駒に 倭文(しつ)鞍うち置き はひ乗りて

これは分かりやすいですね。
腰には剣太刀を差し、手には猟弓を握り、そして栗毛の馬(赤駒とは栗毛の馬のこと)に豪華な倭文鞍を置いてまたがっているというのです。

ここで幾つか注意が必要なのは「猟弓」を握っているからと言ってこれから猟に行くわけではなくて、それは「伊達」としてのアクセサリだったと言うことです。
今の時代ならば、さしずめサーフィンなんかしないのにスポーツカーの上にサーフィンを乗せているようなものです。

桔梗

それから、「倭文鞍」とは「倭文」で作られた「鞍」という意味なのですが、その「倭文」とは麻などを赤や青の色に染めて縞や乱れ模様を織り出した織物の事を言います。ですから、「倭文鞍」とはその様な織物で覆われた極めて豪華な鞍なのです。
また、「赤駒」とは一般的に栗毛の馬のことなのですが、「大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ」と詠まれているように、大君もまたがるような馬というイメージがあったのかもしれません。

まさに、輝くような若者の姿が描かれています。
しかし、次の場面に来ると少しトーンが変わってきます。

少女(をとめ)らが さ寝(ね)す板戸を 押し開き い辿(たど)り寄りて 真玉手(またまて)の 玉手さし交(か)へ さ寝(ね)し夜の 幾許(いくだ)もあらねば

これは当時の婚姻形態である「妻問婚」のイメージすれば、男女の幸せな出会いと恋愛感情が描かれていることは容易に理解できます。

また、ここで注意が必要なのは「少女(をとめ)らが さ寝(ね)す板戸」とか「真玉手(またまて)の 玉手さし交(か)へ」という表現は「古事記」の中に見つけることが出来るということです。
それは八千戈神(やちほこのかみ)が沼河比売(ぬなかわひめ)のもとをたずねたときの話であり、そのイメージは万葉人ならば容易く共有できたのではないでしょうか。

ススキ

八千戈神とは大国主神の事なのですが、彼が沼河比売を妻にしようとして訪れるのですが、初日は「孃子(おとめ)の寝(な)すや板戸」が開かないので朝を迎えてしまうのです。それに怒った大国主神に対して沼河比売は明日の夜にもう一度たずねてくれれば「真玉手(またまて)の 玉手さし枕(ま)き 股長(ももながに)に 寝(い)は寝(な)さむ(玉のような手をさしかわして枕にし、脚をのびのびと伸ばしておやすみなさいましょう)」と答えるのです。

しかし、憶良はそう言う幸せな夜は「幾許(いくだ)もあらねば」と嘆いて見せるのです。
前段で描いた輝くように美しい若者であっても、その様な幸せな日々はいくらもないうちに時は過ぎ去ってゆくというのです。

そして、その過ぎ去った先にあるのが実にえげつない「老いの現実」なのです。

手束杖(たつかつゑ) 腰にたがねて か行けば 人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ 老男(およしを)は かくのみならし

手に握った杖を腰にあてがって、あちらに行けば人に疎まれ、こちらに行けば人に憎まれる、年をとった男というのはそういうものだと切って捨てるのです。
これを読むと、退職した後も「オレは○○会社の部長だったんだ!」などと意味不明のことをほざきながら、何処へ行っても嫌われている老人の姿が浮かぶようです。

さて問題は、ここまで明け透けに老いの姿を描き出して、それのどこか「二毛の嘆き」をはらう事になるのと言うことです。
ここまで読んでくれば、「二毛の嘆き」をはらうどころか、ますます嘆きは深くなるのです。

しかし、憶良はそう言う疑問を最後の一句によって一刀両断に断ちきってしまいます。

たまきはる 命惜しけど 為(せ)むすべもなし

「たまきはる 命惜しけど」とは「魂がきわまって過ぎ去っていく命は惜しいけれど」と言うような意味になるのでしょうか。
しかし、そう言うことは全て「為(せ)むすべもなし」と切って捨てるのです。

サワヒヨドリ

「どうしようもない」「為すすべもない」という意味になるのでしょうが、これこそは現代の言葉に翻訳してはその「重み」がスルリと抜け落ちてしまいます。ここはそのまま「為(せ)むすべもなし」と繰り返すべきなのでしょう。

憶良は老いの苦しみ、哀しみをこれでもかと言うほど書き連ねてきて、その重みの全てを最後の「為(せ)むすべもなし」という一言で受け止めようとするのであり、その覚悟を読み手にも迫るのです。

先に、少女他の老いを詠んだ部分の初稿に「世間は かくのみならし」という詠嘆が含まれていたものを結果的には削除したらしいと言うことを紹介しました。
それは、文学上の表現として、老いの全てを最後の「為(せ)むすべもなし」で受け止めた方が効果的だと判断したからでしょう。
そうするためには、長歌の途中で「世間は かくのみならし」などという中途半端な詠嘆は無用とした憶良の判断はきわめて正しいと思われます。

そして、この「為(せ)むすべもなし」という最後の一言が題詞の「哀しびたる歌」という表現と対応していたことに気づかされるのです。

憶良は「世間の住り難き」は「為(せ)むすべもなし」であり、それ故にそれはあるがままに受け容れて「哀しむ」しかないという性根の座った思いを提示しているのです。
それは、無常の世の中を捨てて、出家という過程を経て悟りを開くことで救われるという仏教的価値観とは全く異なるものです。
それはもう全く正反対の、真逆とも言えるほどの価値観の転換であり、そしてその価値観は「神無き現代」の価値観と驚くほど近しいのです。

そして、それを受けた反歌は以下のようになっています。

常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも

これは、「序」と「長歌」に於いて展開した憶良的価値観の念押しです。

「常磐」は変わらぬもの、永遠なるもの象徴するものです。続く「かくしもがも」は何をさすのかは判然とはしないのですが「常磐なす」の繰り返しと見るのが妥当でしょう。、
永遠なれ、永遠なれと思っても、こういう無常な世の中のことだから、全てのものを留めおくことは出来ないのだと念を押すのです。

そして、憶良はこれを契機として、歌のテーマを「老い」に絞っていくようになるそうですが、それはまた別のところで取り上げていきたいと思います。
それよりは、この作品が「嘉麻三部作」の最後を飾る作品として選ばれていると言うことをどう見るかという話はスルーできません。
それは次回に続くです。