さて、次の問題は世の無常を「為(せ)むすべもなし」と切って捨てたこの作品を嘉摩三部作の中においてみれば何が見えてくるのかと言うことです。
そこで注目すべきは、この「世間の住り難きを哀しびたる歌」の最後に以下の注釈(左注)が付されていることです。
神龜五年七月二十一日、嘉摩郡にして撰定す。筑前國守山上憶良
この「撰定」をどのように解すのかに関しては二通りの説が提出されてきました。
一つは、神龜五年七月二十一日にこの三部作を作ったことを意味しているとするもの。
もう一つは、神龜五年七月二十一日に、幾つかの歌の中からこの三作品を選び出したとするものです。
しかしながら、既に見てきたように、この三部作はどれをとっても非常に中身が濃くて、さらには先行する漢籍や仏典などを踏まえた表現も多用されていますので、それらをわずか1日で仕上げたというのはいささか考えにくいと言わざるを得ません。
そうすると、これらの作品は、既に作られた歌の中から何らかの意図に基づいて選び出されたものと見る方が妥当です。
それでは、その「選び出す」時の基準となったものは何だったのでしょうか。
それに関しては、文学者としての憶良にのみ焦点を絞る考え方と、国司としての憶良にも視野を広げる考え方の二通りがあるようです。
まず、文学者としての憶良に焦点を絞る考え方は、万葉学の権威とも言うべき中西進氏らが提示しているもので、この三部作はそれぞれ「惑」「愛」「無常」を主題としたものであり、そこには国司などと言う立場とはかけ離れた人間憶良の心情が歌われたものだと主張するのです。
しかしながら、「惑」を主題とした最初の「惑へる情を反さしむるの歌」において「其の惑(まどひ)を反さしむ」としているのを考えると、戸籍から離脱していく農民を引き戻すという国司の任務と全く無関係なものだとは考えにくいのです。
律令制国家というものは全ての農民に田地を割り当て、その割り当てられた農民を戸籍によって管理して、確実に税を徴収することによって成り立っていました。
そして、その様な古代国家のスタイルは天智ー天武ー持統という三代を経ることで確立していくのですが、憶良がこの三部作を選定した神龜五年(728年)の頃には、多くの農民が税を逃れるために戸籍から離脱して「山沢亡命の民」になっていくという現実がありました。
朝廷もまたその様な現実に強い危機感を抱いており、元号が改まるたびに戸籍離脱者に対して、たとえ彼らが武装化して反抗的な態度を取ったものであっても、もとの村に戻ってくれば罪に問わないという恩赦を実施しているのです。
そして、現地の最高責任者である国司に対しては、そう言う戸籍離脱者をもとの村に戻すことを最重要の任務の一つとして位置づけているのです。
憶良がこの三部作を選定したのは、筑前の国司に任じられた時に、国内の視察をかねて地方巡業を行ったときでした。
そう言うときに、まったくの文学的感興だけでこれらの三部作を選んでいたとすれば随分間抜けな国司だと言われても仕方がありません。
しかしながら、憶良という人はどう考えてもその様な文学馬鹿の間抜けな官僚とはかけ離れた人なのです。
彼は遣唐使の一員として唐で最先端の学問を学び、帰国してからは皇太子の首皇子(後の聖武天皇)の家庭教師も務めていたというエリート官僚だったのです。
また、行政官としては太宰府の長官である大伴旅人の右腕として活躍もしているのです。
彼は後に律令体制下の農民の苦しみを描いた「貧窮問答歌」のような作品も残しているので、何となく反体制的な社会活動家のようなイメージを持ってしまうのですが、それは大きな誤りなのです。
ですから、これら三部作は文学者としての矜恃を持って、父母や妻子を捨ててまでも戸籍から離脱して山沢に亡命していった人々に呼びかけたものと見る方が妥当ではないかと思われるのです。
そして、そこで注目すべきもう一つのことは、その憶良の呼びかけが仏教的価値観とは異なる立場から為されていることです。
「愛」は仏教に於いては執着を生み出す「煩悩」とされるのですが、憶良は意図的にそう言う価値観からミスリードをすることで、愛する子供のもとへ戻れと「山沢亡命の民」に呼びかけるのです。
また、「世の無常」を嘆きながらも、「尊者よ今や時至る 応に捨家し出家すべし」という仏教的価値観にリードするのではなくて、それを「為(せ)むすべもなし」と受け容れることを呼びかけるのです。
そして、もう一つ明らかなのは、そういう憶良の呼びかけは儒教道徳に通底する「論理」にもとづいた説得とも明らかに異なると言うことです。
この三部作全体に共通しているトーンは何処まで行っても日本的なウェットな感情なのです。
いや、言葉をかえれば、中国的価値観を徹底的に身につけたエリート官僚でありながら、そこから抜け出して日本的な価値観を自覚しようとする模索が読み取れるのです。
おそらく、「二毛の嘆き」の具体的な姿をこれでもかと言うほど描きながら、その嘆きを最後に「為(せ)むすべもなし」で解決できるというのは、論理的にはあり得ない話です。
しかし、論理では成り立たないことでも感情としてならば受け容れられると言うことを憶良は理解していたのであって、そして、そう言う感情こそが「山沢亡命の民」の心に届くと信じたのでしょう。
そして、振り返ってみれば、この三部作に先立つ「日本挽歌」においても、愛する人を失った哀しみを仏教や儒教という外国の価値観ではなくて、「大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る」というウェットな感情によって慰めようとした事が思い出されます。
中国と日本というのは地理的には近い国ではあるのですが、その根っこの部分においては随分と異なる相を持っていることに気づかされます。
そして、その違いは最近になって始まったのではなくて、万葉の昔から厳然たる違いがあったことを憶良に教えられれば、この二つの民族が理解し合うのはそれほど容易ではないのかもしれないと思ってしまうのです。