万葉集を読む(19)~山上憶良「世間の住り難きを哀しびたる歌 巻五 804~805番歌」(5)

前回は、憶良が中国的価値観を徹底的に身につけたエリート官僚でありながら、そこから抜け出して日本的な価値観を自覚しようとする模索が読み取れると書きました。
そこで、もう一度注目すべき事は、前段の「中国的価値観を徹底的に身につけたエリート官僚」という憶良の姿です。

それは、「子らを思(しの)へる歌」で「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも」と詠んだり、貧窮問答歌で「世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」と詠んだ憶良からは想像しにくい姿です。
しかし、そう言う「中国的価値観を徹底的に身につけたエリート官僚」というバックボーンを持っていたからこそ、結果として憶良が日本的情緒を積極的に自覚しそれに価値を見いだしていったことに重みを感じるのです。

この「世間の住り難きを哀しびたる歌」においても、その背景として「敦煌百歳篇」との関連を指摘する学者がおられます。(辰巳正明氏。今回の講座の講師である大谷先生の恩師だそうです)

憶良の「世間の住り難きを哀しびたる歌」は男女の若く華やかな姿から年老いて衰えていく姿を対比しているのですが、そこには敦煌文書の中の「百歳篇」との関連があるのではないかという指摘です。
この「百歳篇」の存在は断片としては古くから知られていたのですが、1900年に莫高窟から発見された文書群の中から完全な形で発見されました。

原文の漢文は非常に特殊なものらしくて、意味をとるのはかなり難しいようです。
ただし、内容的には非常に面白いものなので、長くなりますが辰巳氏の論文より引用させていただきます。

「百歳篇」は憶良の「世間の住り難きを哀しびたる歌」と同じように「女人百歳篇」と「丈夫百歳篇」からなります。

女人百歳篇

十歳は花のように美しく、親は大切に育てて部屋から出さない
二十歳は咲き誇る花の如く父母は鼻高々で、良い婿を探すのに忙しい
三十歳は赤ら顔も美しく身を装い、牡丹の季節には楽しく遊び歩く
四十歳は家計や家族に悩み、楽しみもなくこのまま老いていくのを恐れる
五十歳は夫に嫌われるのを恐れ、若い頃は物も思わず何も恐れなかった
六十歳は髪は乱れて言葉も少なく、子供や夫のことで心配ばかり
七十歳は衰えが目立ち法を聞いても分からず、風が吹くとあちこち痛む
八十歳は耳も遠く何処へ行くべきかも知らず、夢の中では悪夢ばかり
九十歳は時は無常にしてなす術もなく、寂しさは秋の暮れのようだ
百歳は身はやがて埃となり、子孫の祭に月が土塊を照らすのみ

丈夫百歳篇

十歳は蓮の花のようで親兄弟に愛され、暗くなるまで毬で遊んでいる
二十歳は玉のような容貌で馬に乗って遊び、衣食は気にもかけない
三十歳は学問を身につけ、花のもとで酒杯を傾け笛を吹いて遊楽する
四十歳は坂を下るようで友も少なくなり、いかに思うべきかも分からない
五十歳は成すことに困難が多く、赤ら顔も変じて頭には白髪が増えた
六十歳は安らぎもないままに、子供達のことが憂いとなる
七十歳は夜も眠られぬ日が多くなり、老いに苦しみ体は病がちとなる
八十歳は魂が抜けたような感じで、門前で声を掛けられても分からない
九十歳は人生の残りを苦しみ、魂は何処かも知らず雷鳴も聞こえない
百歳は帰るべき場所も分からず、一生が夢幻のようで土塊となるばかりだ

「風が吹くとあちこち痛む」とか「門前で声を掛けられても分からない」などと言うのは思わず笑ってしまうのですが、その後に何とも言えず哀しくなってきたりするのです。
まさに、残酷ではあるのですが、驚くほどに秀徹なまなざしを感じる文章です。

そして、この「百歳篇」を憶良は知っていた可能性が否定できないのです。
その証拠となるかもしれないものが『聖武天皇宸翰「雑集」』に収められてい「九相観詩」です。

それは四つの「生身の相」と七つの「死身の相」からなるもので、その「生身の相」として以下のように書かれているのです。

遊童歓竹馬 [此是第一童子時]
艶体愛春光 [此是第二壮年時]
老圧方扶杖 [此是第三老時]
違和遂痿牀 [此是第四病時已上四句贈生身時]

翻訳すれば以下のようになるようです。

第一 童子の時には竹馬に乗って遊ぶこと
第二 壮年時は体も艶やかで春の光に愛されること
第三 老年に及ぶと杖に助けられる身となること
第四 遂には病を得て病に伏す身となること

この「雑集」は聖武天皇が皇太子だった時代の手習いだったと言われています。
そうすると、これは家庭教師だった憶良が「百歳篇」をもとに手本を作り、それを皇太子だった首皇子が書き写したという想像は許されます。もちろん、何の証拠もないので確定することは不可能なのですが、それでもこのような「生老病死」に関わる価値観がシルクロードを経て中国に持ち込まれ、それが日本にまで伝わっていたことは確実です。

奈良の平城京はシルクロードの終着点と言われるのですが、この首皇子の手になる「手習い」もその様な終着点の一つなのです。
そして、それは同時に盛年から老年に至る諸相を描き出すことで世の無常を嘆くのは、当時の東アジア全体で共有されていた価値観でもあったのです。

そして、その様な価値観を根拠として仏教は「出家」を促します。
中国的価値観の典型たる儒教は死後のことは語らず、今ある生を徳に則った意味あるものとすることの重要性を主張します。
中国的価値観のもう一つの片割れである道教は仙人となっての不老不死を主張します。

それに対して、憶良はそう言う世の無常を「為(せ)むすべもなし」として全て受け容れる日本的価値観を自覚して、それを中国的価値観、もしくは仏教的価値観と対峙させるのです。
そう考えれば憶良という存在の大きさをひしひしと感ぜずにはおれないのです。